他方、8月7日の午前、第二総軍司令部は軍と県・市の責任者を集めて在広島陸海軍・官衙(官公庁)長の合同会議を開催し、各地の遺体収容を迅速に行うこと、輸送が困難なため、現地で焼くか埋葬することを申し合わせた。似島での遺体処理もこの方針に沿ってなされた。遺体の放置により伝染病が蔓延することを防ぐ、公衆衛生の観点が考慮されたものと思われる。
「この世の地獄」
似島での死者をめぐる光景は痛ましいというほかない。例えば、雑魚場町(編集部注:広島市中心部、市役所そばの町。爆心地からは約1km南東に位置する)で被爆し、大火傷を負った長男の民樹を連れて、8月6日の夕方に似島に渡った景山美八重(当時34歳)は、収容先で隣に横たわる家族が相次いで死亡した悲劇を次のように記している(息子の民樹は11日に死去)。
一番目を引いたのは、親子三人連れ。私の隣に寝かされ、父親は治療に行き、その間にいつの間にかお母さんは亡くなり、それとも知らず女の子は、乳房を一生懸命すっていました。自分の子〔民樹〕に気を取られている間に、赤ちゃんも、母親の胸に顔を付けて、死んで居ました。6日に2人を失ったお父さんも7日朝、息を引き取っていました(*3)。
*3 景山美八重「私の体験」NHK広島報道番組班『被爆体験⒡⒢私の訴えたいこと』上巻、非売品、1977年、118-119頁。
救護に従事した検疫所の堀田福美もまた、「運ばれて行く担架の死体にしがみつき、我が子の名を叫び狂ったように号泣する母親、父親の死体の前で何も知らず、無心に遊ぶいじらしい女児」の姿を書き留めている(*4)。
*4 堀田福美「似島検疫所と原爆と」日本検疫衛生協会編『検疫制度100周年記念誌』日本検疫衛生協会、1979年、242頁
遠方から息子を捜すため、8月9日の朝に似島にたどり着いた池田ハルヨ(戸河内国民学校教諭、当時37歳)は、つい今しがた長男の昭夫(広島県立広島第一中学校1年生、14歳)が息を引き取ったことを看護婦から知らされ、ショックを受けた。彼女はとっさに水筒の水を息子の口に含ませようとしたが、その唇は動かず、そこで(幼少期の頃の息子を思い出し)人目もはばからずに乳房を彼の唇に当ててみた。だが、我が子が生き返ることはなかった。ハルヨは失意のうちに、軍医に頼んで息子の右手の人さし指を切断してもらい、アルコール漬けにしてビンに入れ、自宅まで持ち帰った(*5)。
*5 池田武夫「屍に乳房をふくませて」秋田正之編『星は見ている――全滅した広島一中一年生・父母の手記集』鱒書房、1954年、137頁。『中国新聞』1974年7月25日付。


