ねじれている記者の心理
23年2月28日の火曜夕方、私は自宅で1ページの短い芸能記事を無事校了し、一息ついていた。
毎週火曜日は、文春の“1折”と呼ばれる特集ページの締切日だ。夕方から夜にかけて原稿の最終チェックを終えて校了する。水曜日が唯一の休みで、木曜日から新たな1週間が始まるため、火曜の夜が、記者が一番の解放感を味わうときだ。
そんなときだった。デスクの柳原真史から電話が入った。
「来週取材して貰いたいことがあるので、会社に来てもらえませんか」
1週間の仕事が終わったにもかかわらず、編集部への呼び出し。腹を立ててもおかしくないが、文春記者の心理はねじれている。木曜朝に行われる企画プラン会議への出席が免除され、どの記者も毎週苦心して集める5本のネタを用意しなくてもいい、という喜びが勝つのだ。
編集部に着くと、柳原はいつものように淡々とした口調で説明した。
「イギリスのBBCが、ジャニー喜多川の、ジュニアに対する性虐待についてのドキュメンタリーを放送することになったんです。うちの会社も、昔やったキャンペーン報道とその裁判について、今回のBBCの取材に協力しています。それが放送されれば話題になるでしょう。これを契機にうちとしても、問題を改めて掘り起こしたいんです」
3月7日、BBCは「Predator:The Secret Scandal of J-Pop(J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル)」をイギリスで放送した。
日本の男性アイドル事務所「ジャニーズ事務所」の創始者・ジャニー喜多川によるジュニアへの性加害を正面から取り上げた、世界で初めてのテレビ番組である。そこでは1999年に週刊文春が報じたジャニー喜多川の性虐待疑惑について触れ、当時の記者に取材を行っていた。
さらに、取材班が独自でたどり着いた、被害を受けたという3人の元ジュニアが、顔出しで証言した。
なかでも決定的な証言をしたのは、30年以上前にジュニアだったハヤシだ。3人中唯一マスクで顔の下半分を隠し、仮名での出演だった。彼は15歳のときに、口腔性交の被害を受けたと声を詰まらせながら語った。
私は番組を観終わって、どうやってBBCは証言してくれる元ジュニアにたどり着いたのか。どうやったら自分たちも被害者に取材ができるのか。そのことばかり考えていた。
ジャニーの行為は“なかったこと”にされた
99年、文春はジャニーの少年たちへの性加害について、14週にわたってキャンペーン報道を行った。キャンペーン開始から間をおかず、ジャニーとジャニーズ事務所は、出版元の文藝春秋を名誉毀損で訴えた。
東京地裁での一審は文春側の敗訴。だが、二審判決では〈原告喜多川が(中略)セクハラ行為をしているとの記述については、いわゆる真実性の抗弁が認められ、かつ、公共の利害に関する事実に係るものである〉と認定。04年、最高裁は原告の訴えを棄却して二審の判決が確定、文春の実質勝訴だった。
ところが、それを報じたメディアは全国紙では朝日新聞と毎日新聞のみ。テレビとスポーツ紙は一切触れず、ジャニーの行為は“なかったこと”にされた。彼は相変わらず、社長として少年たちに関わり続けた。
当時、大学生だった私は週刊誌を読む習慣がなく、記事のことは知らなかった。04年の判決確定のニュースも、まったく記憶にない。
だが週刊誌記者の仕事を始めると、芸能界とメディアにおいて、この問題は常識のように知れ渡っていることがわかった。当たり前過ぎて、いまさら問題にもならないとされているというのが私の肌感覚だった。
その問題を、いまBBCが取り上げた。ハリウッドの映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタイン問題など、エンターテインメント界での性加害問題については世間の関心も以前より高まっている。日本でも映画監督による女優への性暴力が話題となっていた。今度こそ、大きな社会問題にできるかもしれない。
編集長の加藤晃彦もまた、BBCの放送は大きな展開を生むと考えた。ワインスタイン問題はニューヨーク・タイムズとニューヨーカー誌が被害者の声を報じて一気に燃え上がり、ワインスタインは刑務所に入った。ジャニーの被害者はまだ生きている。99年に報じたにもかかわらず、不完全燃焼で終わった文春としては、やらないわけにはいかない、と。
(後編に続く、文中敬称略)
(たかはしだいすけ/1978年、岩手県生まれ。早稲田大学卒。2025年まで週刊文春の特派記者として芸能を中心に取材し、フリーに。16年、ベッキーと川谷絵音の不倫報道で「第23回編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」大賞を、23年、ジャニー喜多川氏によるジャニーズJr.への性加害報道で「第3回調査報道大賞」大賞を受賞した。)

