事故当日、交通捜査課長が会見で話した。「飯塚は『アクセルが戻らなくなった』と供述しているが、運転ミスの線が強い。メーカーの検査も必要だと考えている」
警視庁は事故直後からアクセルとブレーキの踏み間違いを疑っていた。
池袋暴走事故の捜査は、通常の事件事故とは異なっていた。事件事故は一般的に送検、起訴、裁判という手続きを辿り、警察は送検、検察は起訴と、それぞれの捜査機関が役割に応じて目標を掲げる。
しかし、池袋暴走事故の場合、警視庁と東京地検は捜査の初期から強いタッグを組み、裁判で過失運転致死傷罪の法定刑の上限である禁錮七年(条文では「七年以下の拘禁刑若しくは禁錮又は百万円以下の罰金」)を求刑することを最重要目標として掲げていたという。実際に求刑をするのは検察官だが、その検察官が七年を求刑できるだけの十分な証拠を集めるべく捜査を進めたのだ。
「絶対に失敗できない」実況見分
警視庁と地検は頻繁に会議を開き、時には深夜に及ぶことがあった。警視庁の捜査員は、地検の検事に対して「必死でやっているので七年で頼みますよ」というメッセージを送り、一方で検事は警視庁の捜査員に対して補充捜査の指示を繰り返した。遺族や被害者の無念を晴らすという動機もあったが、それほど世論からのプレッシャーも大きかった。
飯塚は国立国際医療研究センター病院の東病棟七階の個室に入院していた。七階の救命救急センターは、東京都トップクラスの年間一万件以上の救急患者を扱っている。事故の翌日から飯塚の病室が取調室になった。警視庁は飯塚の記憶が鮮明なうちに、午後三時ごろから一時間ほどの任意の事情聴取を始めた。飯塚は体力が回復しておらず必死だった。夜になると事故のことを思い出して寝付けず、睡眠薬や精神安定剤を服用していた。
また、飯塚の車の故障の有無を調べる実況見分を行うことも早々に決定した。実況見分は事故五日後の四月二四日午前一〇時、立川市の警視庁の多摩総合庁舎で行われることになった。
参加者は、警視庁の捜査員や東京地検の検事のほか、トヨタの担当者。捜査員の間には絶対に失敗はできないという並々ならぬ緊張感が満ちていたという。