極寒の地で

 終戦2か月前に歩兵第240連隊に召集された井上賢は11月13日、ズーンハラーに移送されてきた。11月中旬といえば、モンゴルでは本格的な冬を迎え、最低気温は零下15度から30度まで下がる。井上は手記で、穴倉収容所の寒さを「宿舎は冷蔵庫に生活している様なもの」と書いている。中にはペチカもあったが、水筒の水は室内なのに凍った。就寝の際は防寒帽に防寒靴まで履いた完全防寒態勢で床に就いたと、井上は振り返っている。

 ここで改めて、日本人抑留者にとって困難の一つとなったモンゴルの冬の寒さについて触れておく。ウランバートルの緯度はパリやウィーンと変わらず、ソ連のシベリア地域より寒さは厳しくないという印象がある。現実は違う。

 内陸性気候の上、モンゴルは標高が平均1580メートルの高地にあり、12月から1月の最低気温は零下30度から40度になる日がしばしばある。グラスに入れていたウォッカや子牛の角まで凍るほどで、ウランバートルは「世界で一番寒い首都」と言われる。

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「世界で一番寒い首都」といわれるウランバートル ©AFLO

 前述の友弘正雄はスフバートルからウランバートルまでトラックの荷台に乗せられ、移送される途中、両足が凍傷にかかる。部隊の責任者から「皆、毛布をかぶれよ」と注意を受けたが、荷台の一番後ろにいた友弘と隣の兵士は足がはみ出したままだった。

 今の感覚で言えば、「たったそれだけのこと」だが、中継地のズーンハラーに着いた時、友弘は足の感覚がなく、立てなくなる。隣の兵士は体が冷たくなり、凍死していた。

 友弘はウランバートルに着くとアムラルト病院に運び込まれた。軍医から「もう足を切るしかない」と言い渡され、手術で両足の膝の上から下を切断されることになる。麻酔薬が足りず、4、5人の衛生兵から体を押さえこまれる。口に布で猿ぐつわをかまされ、のこぎりで骨を切断された。当時のモンゴルに義足をつくる技術はない。友弘は両足の切断部に毛布をあててもらい、帰国まで四つんばいで移動する生活を強いられた。

 凍傷は、友弘のように移送中にかかった者だけではない。収容所に入ってから命じられた屋外作業でも凍傷患者が続出する。初秋の満洲から夏用の服装のまま連れてこられたうえ、食料不足から体力が極度に低下していたことが影響している。

 モンゴルの引率者の不注意が原因になったケースもある。スフバートルからの移送のため国防省から来ていた数人の運転手が酒を飲んで周囲をぶらつき、その間にトラックに取り残されていた多数の日本人抑留者が凍傷になったのだ。

 雪の中、抑留者の集団が作業現場へ徒歩で移動中、モンゴル兵が「近道だ」と言って誘導した場所で全員迷ってしまい、ひどい凍傷になってしまったこともある。救援隊が駆けつけた時には1人が凍死し、1人が重態になっていた。

 モンゴルに残っている死亡証書によると、凍死は41人を数える。厳寒は凍死という直接の死因になるだけでなく、冬の重労働が体力の消耗を加速させる。その結果、生命力を根底から奪い、伝染病などに対する免疫力・抵抗力を失わせ、間接的な死因にもなった。

 モンゴル抑留の死亡率がソ連地域より高くなった要因の一つに「チョモランマのふもとのレベル」とも評される気候条件があったと、私は考えている。