終戦直後、民間人であるはずの満洲や中国・華北地方の日本人居留民がソ連・モンゴル軍に拉致され、過酷な抑留生活を強いられていた。官公庁職員や満鉄職員ら成人男性を丸ごと捕虜にする日本人狩りが横行するなか、現地の日本軍や領事館は居留民を見捨てて早々に撤退してしまう。いわれなきスパイ容疑での拷問や銃殺までもが行われた無法地帯の実情とは……。ジャーナリストの井手裕彦氏による『モンゴル抑留 見捨てられた死者たち』(角川新書)の一部を抜粋し、知られざる悲劇を紐解く。
◆◆◆
居留民を丸ごと捕虜に
ソ連軍が最初に民間人に手をつけた場所は、日本兵の数が足りないことを知った承徳だった。承徳ではソ連・モンゴル軍が8月19日に侵攻してくる直前に「熱河省日本人居留民団」が結成されている。婦女子を合わせ約1300人の居留民は、日本軍司令部から「軍が駐留している承徳離宮へ即時入るように」との求めで翌20日にかけて離宮内に移る。
居留民に対しては、8月13日にも錦県へ避難するよう指示が出たため、老人や婦女子をはじめ軍と関係がない居留民は承徳駅から疎開列車にあわただしく乗り込んだ。だが、官公庁や国策会社の社員や商人、労働者、その家族らは避難できないでいたのである。
15日の終戦以降、街の雰囲気は一変する。満人の暴民が日本企業の倉庫や日本人住宅を襲って物という物を持ち去る。ソ連軍が来れば「男は皆殺しにされる」「婦女子は拉致される」とうわさも広まっていた。
清朝の康熙帝が「避暑山荘」として1703年から歳月をかけて築造した承徳離宮は高い塀で囲まれている。緊急下で、日本軍司令部が居留民を自分の目が届くところに集めようとしたのは急場の住民保護策だった。皮肉なことに、ソ連軍には探し求めていた捕虜を一挙確保できる好機と映る。離宮の周囲を武装兵で取り囲んだのだ。
居留民団や日本軍司令部からの度重なる要請で、ソ連軍は婦女子約300人と老齢や病弱の男子約60人は解放したが、軟禁を解くことはなかった。
9月に入るとソ連軍は居留民団に対し、日本兵で編成された作業大隊の人数が足りないところに、居留民団員を入れるよう命令してきた。モンゴルへ渡す捕虜に民間人を組み入れる準備に入ったわけだ。この頃には熱河省の奥地から承徳に避難してきた官公庁職員や居留民数十人も合流させられている。
熱河省公署参事官で、居留民団の総務部長も務めた久保田設司の手記によると、居留民団員は承徳第5大隊に600人が組み込まれたが、承徳第3大隊の枠が埋まらないとして、うち180人が第3大隊に振り分けられた。居留民団に当初、含まれていた警察官300人は、佐官以上で編成されていた承徳将校団に組み込まれる。
春日が『外交時報』に書いていた作業大隊の構成では、承徳第4大隊にも人数は不明だが、承徳の居留民が入れられた。モンゴルに移送された熱河省日本人居留民団全体の人数については、久保田は「約1000人」としている。


