民間人を残したまま

 領事館では領事の白倉精一の采配のもと、婦女子や老人を天津方面へ列車で緊急避難させることを決定。領事館警察の署員たちが山海関駅への誘導に当たる。無蓋貨車の脱出列車が3回にわたって駅を出発し、わずかな時間差で避難が行われた。

 問題は残った成人男性だ。山海関でも居留民団が組織され、青壮年で義勇隊が編成されていた。混乱の中で義勇隊員に「銃を取れ」と抗戦の指示が出され、非常召集で各屯所に配置される。実戦の経験者はいないのに、各人に銃が渡された。末端の隊員の手記しか残っていないので、指示の発信元は不明だ。白倉ら領事館側と居留民団幹部が「ソ連軍がきたら居留民も抗戦する」と手はずを決めていたのだろう。日本軍にも連絡のうえで、のはずだ。

 煮え切らなかったのは日本軍の方である。特別警備隊には支那派遣軍から(1)いかなる場合でも戦闘行為を引き起こしてはならない (2)極力、交渉によって敵の侵攻意図を封鎖すること――と対処方針の命令が出ていた。命令に従い、特別警備隊から参謀が出て現地交渉に当たったが、傍若無人のソ連軍を交渉で止めるのは難題すぎる。

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 そこへソ連軍は半ば脅迫の最終通告をしてきた。

「日本軍ならびに武装団体は午後3時30分までに完全に武装解除せよ。履行しなければ攻撃もやむを得ない」

 特別警備隊は「銃火を交えず、武装解除に応じないとすれば手段は転進しかない」と決断する。婦女子や老人らの緊急避難と時を同じくして20キロ南方へ民間人を残したまま撤退してしまったのだ。

 ソ連軍はしたたかだ。日本軍が配備を解いたのを確認して総攻撃を開始する。中国領への越境を正当化する意図もあったのか、八路軍(中国共産党軍)を先導につけた。日本軍がぬけの殻になれば居留民の義勇隊はひとたまりもない。銃撃で対抗した義勇隊も一部あったが、降伏が相次ぎ、ソ連軍の捕虜にされた。領事館でも白倉をはじめ職員が監禁される。

 それでも「日本人狩り」は始まったばかりだった。翌日にかけて、ソ連軍が占領した街のあちこちで居留民が拘束される。日本人小学校や憲兵隊の兵舎などソ連軍が接収した施設に片っ端から強制収容された。避難列車に乗り遅れた婦女子ら約40人をはじめ、抑留された居留民は700人近くにのぼっていた。

処刑まであった

 さらにソ連軍司令部の政治部がスパイの嫌疑をかけた居留民を連行し、次々と軍事裁判にかけた。領事館警察署員だった六車正太郎はモンゴルから帰還後記した手記で、山海関駅でソ連兵2人を射殺したというあらぬ嫌疑で銃殺刑を宣告されたと書いている。六車は、面識のあったイタリア人の助言で刑の執行を免れたが、裏庭で日本人2人に銃殺刑が執行されたのを目撃している。