一方、日本兵では、承徳を中心に熱河省内に駐屯していた歩兵第240連隊が最も多く、約3000人にのぼる。私が遺族に死亡記録を渡した抑留者でも、軍曹の山元正昂、南澤源吾、伍長の小黒赳、兵長の松本重雄、上等兵の石坂五郎、梅田亨一、兵の小池七雄の7人がいて、所属部隊別では一番多い。民間人でも承徳在住者が最多で、承徳がモンゴル抑留の起点になったことは間違いない。

 そしてついに9月15日午前、日本兵の間に民間人が入った五つの作業大隊と将校団がソ連・モンゴル軍に監視されながら、徒歩で行軍を開始した。

 私の手元の死亡記録には、承徳税関長・瀧本治三郎、承徳郵政局長・吉田孝夫、満洲生命承徳支部長・加藤達雄、承徳検察官・須藤長八郎、大工・藤内章、土建業・中村友尾、承徳省立病院炊事員・阿部常吉ら承徳の民間人の名前がある。中には50代半ばの人もいる。離宮に入った時はまさかモンゴルで自分が命を落とすとは思いも及ばなかっただろう。

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写真はイメージ ©AFLO

その後も続く民間人の連行

 熱河省日本人居留民団を丸ごと捕虜にした後もソ連軍の民間人連行は終わらない。

 日本軍が満鉄をソ連軍に利用されないよう一部を爆破したため、承徳を出発した日本人梯団は100キロ東の平泉の街まで街道を3日間歩き通しになる。平泉では内モンゴル東部の多倫(現在の内モンゴル自治区ドロンノール)からモンゴル軍に追われ、裸同然で満洲国境を越えて逃げてきた居留民も梯団に加えられる。そのほか、日本軍がチタンの鉱脈を発見して精錬所があった承徳の20キロ西の双塔山一帯や平泉の居留民らも合流させられた。

 平泉はソ連軍がモンゴルに提供する民間人の日本人捕虜をとりまとめる場所だったのだ。平泉の居留民では平泉在満国民学校長の斉藤熊雄や平泉阿片組合職員の高垣実三らがモンゴルに抑留された後に命を落としているが、斉藤も高垣も40代である。

 承徳から連行されてきた日本人の梯団は合流組とともに平泉駅で、有蓋貨車の四つの列車に乗せられる。その中の第1列車の貨車2両に兵士ではない日本人の集団が押し込められていた。この人たちこそ、「日本人狩り」の被害者だったのだ。

  一つ目の集団は、ソ連軍が8月29日、進軍した満洲国南東端の町、綏中から連れてこられた人たちだ。総数は不明だが、満鉄職員が最も多く、ほかに綏中の公署官吏や警察官、満洲電信電話会社社員、請負業者、自転車業者らがいた。

 最も多い満鉄職員だが、私の調査では、モンゴルで死亡した人だけで少なくとも40人にのぼる。しかし、モンゴル国立中央公文書館で入手した死亡記録には「満鉄職員」としか書いていない。軍人のようにどこの所属だったか、わからない。所属を突き止めると、石井富太郎のようにソ連軍にどのように抑留されたのか、経緯を調べる手がかりになる。

 何とか調べられないかと、2025年10月、上京して国立国会図書館にこもった。ここには戦後、旧社員らでつくった満鉄会が解散後の2017年、約15万人分の社員名簿を寄贈している。その社員名簿に死亡記録の氏名が載っていないか、2日がかりで照合した。