ソ連が「これは」と目をつけた居留民の取り調べと刑の執行はほかでも行われている。日本軍の留置場が拘留に使われ、取り調べでは両腕を後ろ手に縛られ、天井の鴨居につるされて殴る蹴るの暴行を受けたり、煙草の火で頰を焼かれたり、といった拷問まであった。

 山海関で一体、何人が処刑されたのか。記録がないため、全容はわからない。

写真はイメージ ©AFLO

 数日後、捕虜にされた居留民の満洲への移送が始まる。山海関駅から貨物列車で綏中へ。輸送の指揮官はソ連兵だったが、監視兵はモンゴル兵が多かったというから「日本人狩り」はモンゴル軍も承知のうえで実施したということだ。

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 六車の手記によると、綏中では、47歳以上と18歳未満や病弱者が隔離され、台湾、朝鮮出身者も切り離された。モンゴルへ提供する捕虜の選抜作業を行ったということだ。ここまでに脱走者もあり、平泉まで移送され、有蓋貨車に乗せられたのは約350人。モンゴルに抑留された民間人では熱河省日本人居留民団に次ぎ、山海関の居留民が多かった。

責任の所在

 山海関での民間人拉致、抑留を振り返り、私は思うところがある。日本側が毅然とした対応をとっていれば防げたのではないかという疑問である。

 まず日本軍である。特別警備隊も、報告を受けた支那派遣軍も軍が現場を去れば、居留民の安全が保証できないことは承知していたはずだ。居留民の保護ができない軍は軍ではない。関東軍が後世にわたって責められてきたが、支那派遣軍も同罪だと言える。

 日本領事館や北京の日本大使館も責任を免れない。領事館員だった三浦大助の手記によると、ソ連軍の満洲での残虐非道ぶりを聞いた領事館員から「居留民を一刻も早く後方へ避難させるべきだ」と領事の白倉に進言する者があった。白倉は「戦争では敗戦国民に危害を加えることはないから、もう少し様子を見よう」と動かない。義勇隊が銃を携行するのを黙認した判断も甘い。武器を持っていればソ連軍から「軍人」とみなされても抗弁できない。

 そして北京の日本大使館である。白倉が頼りにしていたにもかかわらず、日本大使館からは最後まで何の指示もないままだった。ちなみに白倉自身は、ソ連軍がほかの領事館員から引き離してソ連領内に連行して抑留したが、後に帰国している。

 山海関は、中国大陸にいた日本人が1946年5月27日を最初に日本へ引き揚げを開始する拠点港となった葫蘆島から120キロ離れている。とはいえ、数千キロにわたった避難途中に多くの犠牲者を出した満洲北部、東部の開拓団員らと比べれば、葫蘆島にたどり着くまでの危険は少なかった。

 捕らえられた人たちがソ連軍の「日本人狩り」に遭わなかったら、無事に日本へ帰還できただろうと思うと言葉が出ない。

次の記事に続く 「もう足を切るしかない」気温マイナス40度のモンゴル抑留…“麻酔なし”で両足をノコギリで切断された日本兵を待ち受けていた悲劇《収容所で生き地獄を味わった捕虜たちのリアル》