満鉄は終戦時、約40万人の社員がいた。満鉄会の社員名簿登載者は全体の4割にも満たないが、現存する最大の終戦時の社員名簿である。照合作業で、錦州鉄道局綏中工務区の職員11人、錦州機関区綏中駐在所の職員と綏中駅の駅員各2人、錦州列車区綏中在勤所の職員1人の計16人の所属を確認できた。遺族を捜し出せば、この情報も伝えるつもりだ。
工務区は鉄道工事の担当職員、機関区は運転士、列車区は車掌が所属する。各職場でモンゴルに連れて行かれた職員は死亡者の何倍かにのぼり、合計すれば少なく見積もっても100人以上に及ぶだろう。どうみてもソ連に抑留した満鉄幹部のように意図をもって連行したのではない。駅周辺の事務所にいた職員を無差別に引っ張ったとしか考えられない。
再び中国へ越境
運命の哀れさを私が感じたのはもう一つの集団だ。ソ連・モンゴル軍の侵攻で捕虜にされた、その場所が、綏中と万里の長城を挟んで向かいの中国河北省側の街、山海関だったからだ。
渤海湾に面した山海関は「天下第一関」と呼ばれた万里の長城の起点で、海陸の交通の要衝である。日本から満洲国を経由して中国へ、逆に中国から満洲国へ入国するのも山海関を通過して税関検査を受けるのが一般的で、日本人居留民も3000人近くいた。
ソ連・モンゴル軍が中国側に越境したのは、古北口に次いで2度目になる。見過ごせないのは8月31日という侵攻時期だ。満洲では興安北省アルシャン方面で最後まで戦闘を続けていた第107師団が8月29日降伏し、ソ連軍は満洲国全域の制圧を終えた。侵攻2日後の9月2日には東京湾上の米国戦艦「ミズーリ」上で日本の降伏文書調印が予定されている。その前にソ連は駆け込みでモンゴルに渡す日本人捕虜を確保しようとしたのである。
この時期になるとソ連軍は日本軍をなめきっていたのかもしれない。複数の手記や駐屯していた山海関特別警備隊から支那派遣軍参謀長宛てに送った至急電報から、ソ連軍の高飛車な姿勢と日本側の混乱した様子が浮かび上がる。
8月30日早朝、山海関の日本領事館へ綏中に本部を置くソ連軍司令部から電話が入る。
「山海関に向かうので列車を用意せよ」
その後、さらに緊迫した連絡が来る。
「戦車50台、装甲車30台で綏中を出発し、山海関に向かう。3万人の後続部隊あり。白旗を掲げて出迎えよ」
山海関特別警備隊にも午前9時、山海関の東方20キロまできたソ連軍が通告してくる。
「午前11時30分、山海関に到着するゆえ出迎えよ」


