第二次世界大戦の終戦後、投降した日本兵が過酷な強制労働を強いられた「シベリア抑留」は広く知られているが、実はモンゴルにも多くの日本人が連行されていたことをご存知だろうか。

 現地は零下40度にも達する極寒の地。そこで待ち受けていたのは、深さ4メートルの穴を掘っただけの想像を絶する劣悪な環境「穴倉収容所」だった。地獄の様相を呈したモンゴル抑留の過酷な実態について、ジャーナリストの井手裕彦氏による『モンゴル抑留 見捨てられた死者たち』(角川新書)の一部を抜粋して紹介する。

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「穴倉収容所」まであった

 シベリア抑留と引き揚げの実態を紹介する東京・西新宿の平和祈念展示資料館に当時を再現した収容所の模型がある。まわりに鉄条網や柵を張りめぐらせた敷地に宿舎や警備本部など木造バラックが建ち並ぶ。そして、ソ連兵がマンドリン銃を構えて監視する望楼だ。

 私がソ連での抑留体験者の多くから聞いた収容所のイメージもこの模型と同じだった。だが、モンゴルにこうしたソ連型の典型的な収容所はない。

 モンゴルが収容所を用意しなければならなかったのは、ソ連から日本人捕虜を提供されると聞いてから第1陣の到着まで、わずか2か月足らずの間である。1万4000人分の収容所を新設するのは無理だった。政府が既存の建物を接収し、応急修理して収容所として転用する。それしか手立てはなかったのである。

 兵舎や工場にあった従業員用宿舎を空けたのはましな方だ。工場の空きスペースに粗末なバラックを建て、倉庫、ガレージ、農場のゲル、校舎を転用する。閉鎖していたチベット仏教の寺院も活用した。中には、小屋と呼ぶ方がいい収容所もある。

 日本人自身が作らされた建物もある。前項で紹介したウギーノールの収容所は、抑留者が優に5キロは超えたところにある山から石を切り出して運び、積み上げたものだ。地元の住民からそう聞いた。建物ができるまでは寒風が吹きすさぶ湖畔で野営だったらしい。

 大抵の収容所の内部は板2段から4段の床を張っただけ。1人当たりのスペースは移送中の貨車内と同じく、肩幅のぎりぎりくらいしかなく、毛布もなかった。「入れ物」だけ何とか、間に合わせたのだ。

 日本人抑留者専用の病院も必要になり、ウランバートル郊外にあった保養所を病院にした。天皇皇后両陛下が慰霊に訪問されたダムバダルジャー日本人墓地の下にあったアムラルト病院だ。「アムラルト」はモンゴル語で「休息」という言葉である。

 こうしたドタバタの工夫でも収容所は足りない。窮余の一策として設けたのが、深さ4メートルくらいの穴を掘り、柱を立てて屋根を葺いた穴倉収容所だ。スフバートルとウランバートルの中間より少し北にあったズーンハラーの国営農場では、山の中腹に2か所の穴倉収容所がつくられた。