規則性のない名称のために
急場しのぎの収容施設づくりは、抑留者たちが寒さをしのぐのに苦労した住環境をもたらしただけではない。モンゴル当局自身の個々の収容所の掌握が追いつかなかった。開設したすべての収容所を記録や統計にあげられない、という収容所管理の根本的な不備を招く。
モンゴルに何か所の収容所や病院があったのか。この章で、私は「捕虜の現有数と変動に関する極秘メモ」という公文書から「計55か所」だと説明していた。ところが、厚労省が行った帰還者からの聞き取りやモンゴル抑留者の手記からは、55か所にない収容所がしばしば出てくる。これもモンゴル側が主張する抑留者の総数を信じられない原因でもある。
抑留では「先輩」であったソ連では、こんな現象はほとんどない。厳格に収容所を管理していたからだ。ソ連の管理のやり方をみてみよう。
例えばハバロフスク地方のムリー地区が「1」、ソヴィエツカヤ・ガヴァーニ地区が「2」といった具合に収容所地区に番号を振り、本部を置いた。地区内の各収容所を分所とし、分所にも1から順に番号をつける。「第○収容所第○分所」と記せば、どこにあった収容所か明確になり、記録もそうした収容所名で処理されている。
二宮和也主演で2022年12月、封切られた映画『ラーゲリより愛を込めて』の主人公として有名になった元満鉄調査部員、山本幡男が病死した第16収容所第21分所はハバロフスク市郊外、ウラジオストクへ向かう街道沿いにあった、という具合である。
モンゴルの場合は収容所の名称を地名から取ったり、元の施設名をつけたり、規則性がない。番号を振った収容所もあるにはあった。国立中央公文書館の記録では、ウランバートルにあった収容所として、第1収容所とその次になぜか、第5工場収容所が記されている。
ところが、厚労省の帰還者の聞き取り記録では、第2収容所、第3収容所、さらに第30収容所でも抑留者が亡くなったとして出てくる。そして、番号が抜け落ちていた第4収容所や第6~第29までの収容所はモンゴルと日本、双方の記録に出てこない。こうなると、当時、モンゴル当局はどういう基準で収容所に番号を振ったのか、ミステリーだ。
地名からアムグロン収容所と呼ばれた収容所は、モンゴル当局の記録では「中央収容所」とされていた。場所はウランバートルの中心部から東へ10キロ離れた場所にあり、どうして「中央」とつけたのか、わからない。