特捜班長が明かす捜査の裏側。松永が逮捕された後に、犯行現場から指紋が一切検出されなかった驚きの理由。そして全容解明のため押収された証拠品は3万点を超えた。
「週刊文春」より小野一光氏による連載「北九州監禁連続殺人 捜査本部の初告白」第2回を特別公開する。(初出「週刊文春」2026年4月16日号)
北九州監禁連続殺人事件とは
1995年から2002年にかけて、福岡県北九州市のマンション内で発生した監禁・連続殺人事件。犯人の松永太(逮捕当時40歳)が内縁の妻・緒方純子(同40歳)と共に知人や緒方の親族などの同居相手に対して脅迫・虐待などを相次いで行い、最終的には自分の手を汚さず、マインドコントロールにより互いに互いを殺害させるように仕向けた。一連の犯行は7年に及び、犠牲者は7人にのぼった。02年に監禁されていた広田清美さん(仮名、当時17歳)が虐待から逃れ、祖父母に助けを求めて脱出したことで初めて事件が発覚し、11年に松永の死刑が確定。共犯の緒方も無期懲役が確定した。
「(逮捕後に)本名が明らかになる前、松永(太=逮捕時40)は『宮崎』と、緒方(純子=同40)は『森』と名乗っていました。逮捕されたとき、森は宮崎に『健闘を祈る』と声をかけ、宮崎は森に対し、『気負うんじゃないよ』と言って握手し、別々の捜査車両で護送されています」
2002年3月に発覚し、7名が殺害(1名は傷害致死)されている「北九州監禁連続殺人事件」。
同事件の捜査の現場で指揮をとっていた、元福岡県警捜査一課特捜班長のTさん(78。以下、T班長)が、この事件の始まりを振り返る。
逮捕時に緒方はわざとらしく、「ああ〜、腹減った」と声を上げるなど、露悪的にふるまっていたという。それは自供後の裁判で彼女が見せた、粛々とした振る舞いとは、明らかに異なっている。いわゆる「憑き物が落ちる」前の姿だ。
さらに詳しくは後述するが、松永の「証拠隠滅」にかける執念についても、T班長は初めて明かしている。
松永と緒方に監禁されていた、当時17歳の少女・広田清美さん(仮名)の逃走によって発覚したこの事件だが、彼女はそれより前にも逃走を企て、失敗していた。
「今まで育ててやった費用を返せ」
清美さんが最初に逃走したのは、松永と緒方が逮捕される1カ月以上前の、02年1月30日のこと。彼女は松永と緒方の子供2人を含む、計4人の子供の面倒を、小倉北区の「泉台マンション」(仮名)で見るように言いつけられていた。だが、そこを抜け出して、門司区にある祖父母宅に逃げ込む。
後に開かれた、松永と緒方の裁判における検察側冒頭陳述では、そのことについて、次のように取り上げられている。以下、〈 〉内は検察側冒頭陳述より。
〈被告人両名(松永と緒方)は、平成一四年(〇二年)一月二十三日ころ、被害者甲(清美さん)を「東篠崎マンション」(仮名=小倉北区)に呼び出し、同所において、同被害者に対し、「電話の応対が悪い。」などと因縁を付け、その顔面を激しく殴打するなどした上、同月二十九日ころまで、「東篠崎マンション」に軟禁した。被害者甲は、同日ころ、「泉台マンション」に戻されて前記四子の世話をさせられるようになったが、このままでは被告人両名に殺されかねないと判断して意を決し、同月三十日午前四時ころ、四子が寝静まった隙に「泉台マンション」を抜け出し、北九州市門司区内に居住する前記祖父母方に逃げ込んだ。〉
逃走した清美さんが松永らに捕まった状況、そして再び逃走するまでの流れについて振り返っておくと、この逃走時、清美さんはこれまで松永らから、「今まで育ててやった費用を返せ」などと言われ続けていたため、費用を返済する意思を示せば、彼らが自分を完全に解放してくれるだろうと考えていた。
そこで父の姉である伯母に頼んで、伯母名義の預金通帳を作成してもらうと、「通帳にお金を入れます。こんなことしてごめんなさい」と書いた手紙を添え、2月4日頃に「東篠崎マンション」の、松永らが暮らす部屋の郵便受けに投函したのだった。
松永は、彼女の伯母である橋田由美さん(仮名)に、こう言って、協力を取り付けた。
「清美に頼まれて通帳を作ったようだが、清美は泥棒に入って警察に保護されたことを由紀夫(仮名=清美さんの父親)に知られ、殴られてボコボコにされたあと、逃げ出した。知り合いの『福岡管区警察署』の幹部から得た確かな情報によると、清美は不良グループに入っていて、覚せい剤の運び屋グループに入っている可能性もある。清美が祖父母の家にいるという確かな情報もあるので、一緒に来てくれないか」
