警察署に行けば自分が逮捕されると…
やがて、祖父母の乗った車が到着した。祖父は清美さんを車に乗せてからのことを振り返る。
「清美はお父さんが殺されとるいう話は、最初は全然してなかったんよ。1回目(の逃走時)はね。(中略)で、2回目のときに私がおかしいなあと思ってね、それで帰るときに小倉北警察署にまっすぐ行こうって私が言ったんです。で、小倉北警察署に行って駐車場で私が待っとったけど、清美がいろいろ『行ったらいかん』とかなんとか言って、で、『行かなわからんやろうが』っち言って。だけど、それなら帰ろうって、(門司区にある祖父母宅に)一旦帰ってきたんです。で、そこの道(自宅前)で家内だけ下ろして、清美だけ1人乗せて、それで山の向こうの××(地名)の小学校のところまで行ったんですよ。そこで聞いたんです。『お前、お父さん、もう死んでおらんのやないか?』っち。そうカマかけて言うてみた。そうしたら泣き出したですもんねえ。それでわかったんですよ」
じつは清美さんは、1回目の逃走から連れ戻された際、松永から「事実関係証明書」という証書を作らされていた。彼女の父である由紀夫さんは、松永らから虐待を受けた末に、1996年2月26日に衰弱死しているのだが、松永は、清美さんが殴打したことが原因で死亡したと責任を転嫁。彼女はそれを認める証書に署名、押印していたことから、未成年の清美さんは、警察署に行けば自分が逮捕されると思い込んでいた。それが躊躇の原因だったのだ。
祖父は清美さんを連れて近くの門司署に行き、そこで被害を届け出た。清美さんが7名の死亡について話したことから、管轄である小倉北署に被害申告をするように促され、それから捜査が始まったのだった。
T班長は言う。
「最初、小倉北警察署の相談室で、同署の刑事一課強行班係のY係長と、女性警察官であるK巡査部長が、清美さんへの事情聴取を行いました。怯え、疲れ切った様子の彼女は、以下のことを話しています。
『平成6年(94年)10月頃、小学4年生のとき。父から宮崎(松永)と森(緒方)と名乗る2人を紹介され、その後、理由は知らないが、小倉北区内のマンションにある宮崎の家に親子で移り、宮崎と森、それに森の子供2人との6人での共同生活が始まった』
『共同生活を始めてからいままで、1日1回の食事制限、排尿・排便の制限、通電等の虐待を親子で受けていた』
