「日本だって原爆を開発しようとしていたんだから…」ABCCの調査に不快感を示さなかったワケ
私にとっては、ABCCで検査を受けたと証言してくれる、初めての被爆二世だった。意外だったのは、懐かしく楽しい思い出として、その経験を語っていたことだ。改めてお話を聞かせていただくことにした。
「ABCCについて、特別何か思うことはないですよ。ただサンドイッチとコーヒーがうまかったなあ、っていうだけでね。ABCCの科学者は、命じられて調査しているわけでしょう。アメリカに対する憎しみも、中沢啓治先生ほどはないですねえ。日本だって原爆を開発しようとしていたんだから、同じことをしていた可能性はあるんじゃないんですか?」
2023年10月、久しぶりに再会した阿部さんは、やはりサンドイッチの話をする時には顔をほころばせつつ、淡々と当時を振り返った。彼自身も漫画家として活躍しているからだろう、自らの被爆体験をもとに『はだしのゲン』を描いた中沢啓治氏を引き合いに出しながら、「ABCCの調査に不快感はないのか」という質問に答えてくれた。
5歳の時に「この子は20歳までは生きられん」と宣告され…
阿部さんがうまれたのは終戦から9年後の1954年だ。幼少の頃に住んでいた長屋の家賃が、3400円前後の時代だった。
親戚には被爆者が多く、小さい頃から葬式が多いと感じていた。ケロイドを負った人が何人もいた。首とあごの皮膚がくっついている姿は怖かったが、「何も言うちゃいけんで」という母の言いつけを守り、じっと耐えた。かわいがってくれていたお姉さんの1人は、白血病のため20歳で死去。両親も被爆者であろうことは、なんとなくわかっていた。
母・洋子さんの両親──つまり、阿部さんの母方の祖父母は被爆死し、母は孤児になって引き取られたのだと、親戚がこっそり教えてくれた。
原爆は、すぐ隣にあった。しかし、自分との関わりを意識したことはなかったという。
「この子は20歳までは生きられん」
そう告げられたのは5歳の時だ。風邪で受診した病院で「心臓の音が違う」と言われて調べたところ、心臓の壁に1センチ大の穴が3つも開いていた。小学校に入学しても、体育はダメ、遠足もダメ、水泳も駆け足もしてはならないと命じられた。



