「父は『特攻隊の生き残り』だとも話していましたが、うそをついていたのでしょうね」
考えられる手段は、2つあった。1つは、ABCCの後身にあたる放影研に、保管されているカルテを請求すること。もう1つは、広島市に被爆者健康手帳の申請書類を開示するよう、求めることだ。
両親が手帳をもっていたのなら、当時の書類が残っている可能性が高い。いずれも遺族や本人ならば請求できると阿部さんに伝えると、彼はほとんど間を置かずに問い合わせた。
広島市からは、すぐに応答があった。両親とも手帳を取得していたようで、父が1962年4月30日に、母が1960年5月27日に提出した申請書が残されており、私にも写しを見せてくれた。
どちらも手書きで、かすれていたり文字が崩れたりしている部分が、多々あった。つぶさに読み取ることはできなかったが、わかる範囲では次の通りだ。
父の迪夫さんは、爆心地から南東に約2.5キロ離れた出汐町(現・南区)にいた。「被爆当時の状況」を記した欄には、「旧陸軍電信隊正面●の方を歩いて居た。丁度建物の影になって居るので直射は受けませんでした」(●は不鮮明で読み取れなかった部分、以下同)とある。
「父は『特攻隊の生き残り』だとも話していましたが、うそをついていたのでしょうね……」
洋子さんの両親は被爆死し、遺骨さえも見つかっていない
書類の文字をなぞりながら、阿部さんは言う。
そして母の洋子さんは、西に約2.5キロの己斐中本町(現・西区)にいた。走り書きのような筆跡で、「当時は横川町に居住していたが被爆4、5月前強制的に●●に避難しろとの命令により己斐中本に避難した際に被爆」とある。
先述の通り、洋子さんの両親は被爆死し、遺骨さえも見つかっていない。実家があったのは横川町(現・西区)ではなく弥生町(現・中区)と聞いており、『広島原爆戦災誌』(広島市、1971年)によると、家屋はすべて「全壊」し、人的被害としては39%が即死、44%が負傷した。
「地区によっては助かった人もあったが、殆んどは死亡した。家屋が倒壊し、道路がふさがれてしまったため、逃げおくれた者は、火炎につつまれて焼け死んだのである」とあるが、祖父母が実家にいたのか、洋子さんとともに「避難」していたのかは、書類からは何もわからない。それでも開示された資料は、阿部さんの両親が生き延びた原爆を知る手がかりをくれた。
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