あの日、何が起こったのか。何を感じ、考えたのか。二人揃って事故の事実(ファクト)と感情(エモーション)を明らかにする初めての機会となった。
「一番つらいのは、たくだと思うんですよ」
真菜さんは結婚したとき、自分がかつて使っていたスマホを上原に渡し、上京後は毎日電話をかけていた。手紙も月に一回か二回出していた。上原が追憶する。
「真菜とは細かい話はしないんですけどね。親を思う気持ちは人一倍ありました」
松永の祖母の法事のため、松永家は二〇一九年六月に伊江島に帰省する計画を立て、航空券も宿も予約していた。その法事の前に、真菜さんと莉子ちゃんが実家に帰る予定だった。
「私も本当に楽しみにしていたのに、こういう結果になって、悔しいというか。莉子と、かき氷のこととか話して。真菜は本当に子供の健康を気遣ってね、市販のかき氷なんか食べさせない。いちごを潰して、かき氷機で氷を削って。公園に来るときは、手作りのおにぎりを持ってきてね。東京だけじゃなくて、沖縄でも全部手作り」
上原はこの一〇年間で四人の家族を亡くした。二〇〇九年、真菜さんの姉にあたる次女が二度の骨髄移植という壮絶な闘病生活を経て、二五歳の若さでこの世を去った。二〇一六年一〇月には妻が予兆なく自宅のトイレで倒れ、くも膜下出血で他界した。上原は今回の事故で娘と孫を亡くし、何度も自死を考えた。上原はそれにもかかわらず、娘婿を慮った。
「一番つらいのは、たくだと思うんですよ。最愛の妻と娘が、一瞬にしていなくなるわけですから。私の妻もお別れも何もなく突然ね、気づいて救急車呼んでもダメでした。大切な人が突然いなくなると、気が狂いそうで、何をしていいのか、わからない。たくがつらくてつらくて、本当に大変なのはよくわかります」
真菜さんは、東京に行くことに躊躇いがあった。