それから2か月余りしか経っていないのに、彼はいったいどうやってドイツから日本に移動したのか。現代のように、ベルリンから東京まで飛行機でひとっ飛びなどというわけにはいかない。ましてやこのときは戦時下だ。連合国の包囲網をかいくぐって長距離の移動をするのは至難の業のはずだ。
ボース来日に熱狂した人々
まさかのボース来日に、在日インド人は熱狂した。なかでもサティ・サハーイはとくに驚きと喜びにあふれていた。彼女は第二章で触れた独立運動活動家、アーナンド・モーハン・サハーイの妻で、インドにいたときはボースと接点があったからである。サティはいてもたってもいられず、子どもたちを連れてボースのもとに駆けつけた。サティの長女アシャ──生まれも育ちも日本で、「朝子」と呼ばれていた──によると、ボースは旧知のサティに対し、生活の様子を気遣ってくれるとともに、独立運動に臨む気構えを教えてくれたという。ボースとの対面はアシャにとっても鮮烈な印象を残したようで、70年以上経った後でも懐かしそうに筆者に語ってくれたものだ(拙著『インド独立の志士「朝子」』pp.89-90)。
一方で、1941年にカルカッタを脱出しベルリンまで移動したことがあっただけに、またしてもボースはやったか、という側面もあった。
第一章で述べたように、実は、1943年2月上旬にボースはドイツをあとにしていた。それを悟られまいと、ラジオ演説は事前に録音を済ませておいたものを放送したのだった。その間、ボースを乗せたドイツ海軍のUボートが当時ドイツの占領下にあったフランスのブレスト軍港から出航し、大西洋を経てマダガスカル沖まで出た。そこでボースは待ち構えていた日本海軍の潜水艦伊二九に乗り換え、インド洋を横断してスマトラ島北端に接するサバン島(現ウェー島)にたどり着いた。日本軍機で東京に着いたのは5月16日のことである。


