ここまでして極秘裏に日本に向かったのには理由があった。第一章で記したとおり、当初ボースはベルリンに拠点を置き、反英という点でドイツと共闘したい考えだった。しかし思うような支援が得られなかったため、日本行きを希望するようになる。1942年夏にインド国内で国民会議派が「クイット・インディア」運動を始めたことも彼の焦燥感をかき立てた。
ただ、このとき日本側の腰は重く、ボース招致が決まったのが1942年8月だった。そこからも動きは鈍く、実際にボースがドイツを出たのは半年後だったのである。このとき生じてしまった空白期間は、検討を重ねながらも結局棚上げになった二一号作戦とも相まって、日本が対インド戦略をタイムリーに推進するチャンスを損なってしまった。
ボースとの直接会談が東條を変えた
東京に到着したボースは、それまでにロスした時間を取り戻そうとするかのように、精力的に動いた。杉山元陸軍参謀総長や嶋田繁太郎海相、永野修身海軍軍令部総長、重光葵外相など、日本軍や政府の要人と次々に会談した(ただし、この時点では公の場に姿を現しておらず、滞在していた帝国ホテルでも「松田」という変名を使うなど、自分の存在が知られないよう念には念を入れて行動していた)。「中村屋のボース」ことラーシュ・ビハーリー・ボースも駆けつけた。
ただ、なかなか会談が実現しない大物がいた。東條英機である。彼はボースに対して、共産主義に傾倒しているのではないかと否定的な見方をしていたとされる。
ボースについては、陸軍省、海軍省、外務省が決定した対処方針にも「先ず東京に招致し工作上の利用価値を判定する」(『杉山メモ(下)』p.397)とあるように、知名度はあるのはわかってはいたが、その実力や日本とどのような関係を築けるかについては、東條に限らず日本政府や陸軍は確信が持てていなかったようだ。加えて、INA司令官のモーハン・シンが日本軍への不信感を強めたことも、東條のインド観をネガティブにしたようだ。ボースとしては首相兼陸相の東條は何としてでも会いたい相手だった。しかし、東條のほうはあれやこれやと理由を付けて、会談を先延ばしにしていた。
その東條がボースとの会談に応じることになったのは6月10日のことである。インド独立にかける想いを理路整然かつ情熱的に話すボースに東條はすっかり魅了され、それまでの見方を一変させた。ボースのカリスマ性や人間的な魅力に強く惹きつけられた者は多かった。インド工作機関を率いた岩畔豪雄も後年、自分はこれまで日本人外国人問わずさまざまな人間に会ってきたが、「英雄という感じを受けたのはチャンドラ・ボースだけでした。(中略)ほんとに革命家という感じを受ける人でした」と記しているほどだ(岩畔豪雄『昭和陸軍 謀略秘史』p.232)。



