太平洋戦争末期、米軍は東京大空襲をはじめとする大規模な無差別爆撃を展開し、多くの民間人の命を奪った。それでも日本が降伏しないなか、米軍は広島、長崎に続く「3発目の原爆」をどこに落とそうとしていたのか? 

 ここでは、ジャーナリスト・三山秀昭氏の著書『ヒロシマ、ナガサキ 隠された真実』(文春新書)より、一部を抜粋。前線部隊からワシントンへ送られた公電記録をもとに、終戦直前まで米軍中枢が進めていた、首都・東京への原爆投下計画の内幕を紹介する。(全3回の3回目/1回目から読む

写真はイメージ ©Nobuyuki_Yoshikawa/イメージマート

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世界史上最大の無差別都市爆撃

 太平洋戦争の内幕本などで、「3発目の原爆は東京に投下される予定だった」とする説を時に見受ける。これは軍事専門家らの指摘によるが、本当なのだろうか。

 1945(昭和20)年3月10日午前零時過ぎから明け方にかけて、米軍の爆撃機Bの大編隊約300機が東京・下町の浅草、本所、深川などに焼夷弾M69を大量投下した。軍事施設ではなく、住宅密集地を狙ったものだ。東京大空襲である。

 年初、すでに米軍は軍事施設を目標とする攻撃から民間人の住む地域の爆撃へと戦略転換していた。それによって国民の戦意を喪失させ、降伏に繋げようとしたのだ。死者はほとんどが民間人で約10万人(正確な人数は今なお不明)、負傷者10万人以上とされる。

 また、折からの強風や木造家屋が多い地域だったことから、市街地は火の海になり焼失家屋約26万戸、焼け出された被災者は100万人以上になるという。単一の空襲としては世界史上最大の無差別都市爆撃だった。

 首都東京で一晩に10万人の死者が出る大惨事にもかかわらず、日本政府や軍首脳は、「降伏」→「終戦」への決断ができなかった。東京ではその後も5月25、26日に「山の手空襲」があり、B編隊470機が渋谷区などを空襲、焼夷弾爆撃で16万戸が焼失、3000人以上の死者が出ている。

 このように東京の下町と山の手は焼夷弾による空襲のターゲットになったが、米軍は皇居や都心部への攻撃は控えていた。ただ、山の手空襲の際、誤って皇居に焼夷弾が投下され、建物の一部が燃え、天皇、皇后両陛下は地下室に避難することがあった。