1939年、沿線に昭和産業の工場ができて、通勤輸送を担うようになったのだ。このとき、東河原駅は昭和産業駅に改称している。
“毒ガス開発”をしていた
さらに1942年には、海軍が昭和産業の工場を買収。海軍技術研究所を経て相模海軍工廠になった。この海軍工廠では、毒ガスをはじめとする化学兵器の開発が行われていたそうだ。跡地では2000年代に入ってから工事中に化学剤が入った瓶が見つかり、作業員が被災する事件も起きている。
そして、ここに至って砂利を運んでいた小さな支線は、軍需輸送を担う路線へと変貌したのだ。駅名は四之宮口駅を経て西寒川駅に改められ、海軍工廠で働く人たちの通勤輸送、また資材輸送などが行われるようになる。1944年に相模線は支線を含めて国有化されており、帝都・東京を支えたかつての“砂利鉄”は、名実共にザ・軍事路線になったといっていい。
しかし、国有化から1年ちょっとで戦争は終わる。すると海軍工廠は米軍が接収、しばらくは米軍の貨物輸送に従事することになる。
米軍施設になったため、旅客輸送は休止・廃止されてしまい、時折米軍の物資を満載にした貨物列車が行き交うばかり。沿線の子どもたちが集まってチョコレートをねだった……という、いかにも教科書に書いてありそうなエピソードも伝わっている。
「1日30人しか利用せず…」廃線に
その後、海軍工廠の跡地には昭和ゴム(現・日東タイヤ)や旭ファイバーグラスの工場が進出し、工業団地に生まれ変わってゆく。支線もしばらくはこうした工場への貨物輸送専業だったが、通勤輸送のニーズが増加してくると1960年には旅客輸送を再開している。寒川町の要請を受けてのことだったのだとか。
しかし、ちょっぴり時代が悪かった。
旅客輸送再開当初は西寒川駅も1日1600人が利用するほどに賑わったが、マイカーで通勤する時代が到来しつつあった。支線のお客は右肩下がりで減り続ける。最末期の1980年代、西寒川駅のお客は1日30~40人程度だったという。
この頃には、田畑が目立っていた沿線もすっかり住宅地になっていた。が、支線のダイヤは工場への通勤輸送に特化したもので、廃止時には朝1往復に夕方3往復、1日わずか4往復しか走っていない。とうてい地元の人が日常的に使うようなダイヤではなかったのだ。それに、支線はわずか1.5km。工業団地の入口の西寒川駅まで歩くくらいなら、運転本数がもっと多い寒川駅から乗ればいいじゃない、てな話である。



