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毎日飲んでいました。もちろん、私のおごりです

――やはり注目されている時期は、お金や仲間が集まってくるものなのでしょうか。

船田 お金はそれほど集まらない。仲間を集めることは大切です。毎日、レストランや中華料理店に行って、2、3人と飲んだり、サシで飲んだりしていました。もちろん、私のおごりです。

 仲間といいましても、「あの人は人気あるからおこぼれに与りたい」という人と、本当に支えてくれる人がいて、2、3回も会えば見分けられると思いました。酒を飲めばわかる、と。ですが、全員が打算で集まっている感じがしたり、よくわかんなかったです。ご馳走したことに対して、翌日に御礼を言わないとか、会ったことについて他の人に漏らしてしまうとか、疑心暗鬼は消えませんでした。

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『文藝春秋』1996年新年号に掲載された「政治部記者107人が選んだ 21世紀のリーダーは誰か」では、鳩山由紀夫(当時・新党さきがけ代表幹事)に次ぐ2位にランクインした ©文藝春秋

 だから今、小泉君には、人気があるからといってそれだけで集まってくる人と、本当に助けてくれる人の仕分けをきちんとやりましょうと教えてあげたい。彼はわかっていると思いますが。

――これまでに「一番信じられなかった人」とは誰だったのでしょうか。

船田 それは言いません。だけど、一番信頼できるのは、今で言えば竹下亘。自民党を離党した後も私のことを一番心配してくれていましたし、先代の竹下登先生も、私がどういう状況になっても私の立場をよく理解してくれました。

「鳩船新党」が決裂した原因は……

――プリンスとして注目されると近寄ってくる人ばかりではなく、ライバル意識をむき出しにしてくる「敵」も増えたのではないでしょうか。

船田 つっかかってくる人はいましたね。

 民主党ができる前、鳩山兄弟と私との間で新党(仮称「鳩船新党」)を作ろうという話が浮上したことがありましたが、あの時の鳩山邦夫さんは私に対してめちゃくちゃ辛く当たってきましたね。例えば、お兄さんの由紀夫さんと夜会ったということを邦夫さんが漏れ聞くと、「何を話した?」「どこで飲んだ?」とか詰め寄られました。当時は本会議場の議席も隣どうしで、本会議中ずっとそういう話ばかり。

©文藝春秋

 それと、鳩山家の別荘が軽井沢にありますが、同じ敷地の中に兄と弟の棟が分かれているんです。私がそこを訪ねた際、兄貴の家にずっといたら、邦夫さんが「殴り込み」に来ましてね。「なぜ、オレのところに来ないんだ?」と。それで、お兄さんも仕方がないから、私と二人で、邦夫さんの別荘に行って話をしたら、ちょっかいを出してきて、話をぶち壊してきたということがありました。

 邦夫さんのほうが1期上ですし、うちのおじいさんは鳩山一郎政権の時に防衛庁長官でお世話になったということで、鳩山家に対する尊敬はずっとあったんです。私の初出馬の時も邦夫さんに応援に来てもらったんです。それ以来、ずっと慕っていたんですが、邦夫さんよりも私のほうが世間から注目されるようになってしまい、それと兄貴との関係もあったので、「オレの兄を奪う気か」「オレの前に出る気か」という2つの意味で相当やられました。

――そういうことが、鳩船新党構想の決裂にも影響したのですか。

船田 大いにありました。