これはけっして侮るべきことではない。そうした制度上の連続性は、現在でも選択的夫婦別姓をめぐる議論を左右し、皇室典範の改正問題にも顔をのぞかせているからである。
そのいっぽうで、戦後改革をGHQによる押し付けと、それにたいする日本側の抵抗という構図のみで理解することもまたできない。
GHQによる改革の多くは、意外なほど大きな抵抗もなく受け入れられた。そして冷戦の開始にともなって占領政策が保守化し、さらに日本が主権を回復してみずから制度を改められるようになっても、旧制度へ戻ることはなかった。
その背景には、戦後の民主化改革が、当時の日本社会の現実にある程度即していたという事情もあったのではないだろうか。
というのも、戦前の時点ですでに、家制度は大きな限界に直面していたからだ。
そもそも明治民法の家制度は、武家社会における家督や家産の継承を強く意識してつくられたものだった。そのため、庶民の生活実態に即していなかった。法律上の家と、ひとびとの実際の暮らしとのあいだには、当初から少なからぬずれがあった。
さらに近代化と都市化が進み、親元を離れて働くひとが増え、女性の教育や社会参加も広がるにつれて、戸主が家族の婚姻や居住にまで大きな権限をもつ仕組みは、ますます現実に合わなくなっていった。
こうした事情を背景として、大正時代にはすでに、民法を改正して戸主権を制限し、女性や家族の地位を改善しようとする議論が起こっていた。
つまり、家制度への批判は、敗戦後にGHQが突然持ち込んだものではなく、戦前の日本社会の内部にも存在していたのである。
明治維新から敗戦までには77年もの歳月がある。その長い期間を、ひとまとめに戦前と呼んで一様な時代として扱うことはできない。そこには、自由化を求める動きもあれば、それを押し戻す動きもあった。
もちろん、その後は戦時体制が強まり、こうした自由化に向けた議論の余地は次第に狭められていった。
ただそれでも、戦時下もまた、たんに抑圧だけの時代として捉えることはできない。多くの男性が兵士として動員されるなか、女性は労働力として職場や地域社会へ進出することになった。その結果、意図されたものではなかったにせよ、女性の社会参加が進んだ。総力戦体制は、ある意味では社会に一定の平準化をもたらしたのである。
このような流れをたどると、1920年代にはじまった社会の変化や、戦時下の特殊な経験が、戦後改革へとつながっていたことが見えてくる。
戸主権や家督相続の廃止にそれほど強い抵抗が起こらなかったのは、家制度と社会の現実とのずれが、やはり戦前からすでに無視できないほど大きくなっていたためでもあった。
