今こそ戦後を知ろう。なぜなら、現在の私たちはそれによってつくられているからだ。それを学び、何を受け継ぐべきかを腑分けすることで、これからの未来を変えていこう。

 そのような志の下、近現代史研究者の辻田真佐憲氏が『「戦後」とは何だったのか 未来を変える日本現代史』(文春新書)を上梓した。

 第三章「『自由』はいつやってきたのか」で、辻田氏は憲法や制度だけでは、日本の「自由」は実現されなかったと述べ、高度経済成長の役割を重視する。

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 本書から一部を抜粋してお届けする。

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 戦前の日本社会にすでに存在していた変化の芽が、敗戦後になって大きく花開いたと理解することができる。

 ただし、それは制度の変化だけによって実現したわけではなかった。憲法が変わったからといって、暮らしのありかたが一夜にして変わるものではない。敗戦直後、多くのひとびとは農村共同体のなかで生活していた。家や地域との結びつきを離れ、それらに頼らずに暮らしていくことは、現実にはきわめてむずかしかった。

 占領期には、食料や住居を確保し、日々の生活を成り立たせるだけで精いっぱいだった。憲法によって自由や権利が保障されても、それを現実に享受するためには、生活の安定と経済的な余裕が欠かせなかった。ひとびとの意識もまた、こうした暮らしの変化とともに徐々に変わっていった。

 その点で大きな役割を果たしたもののひとつが、高度経済成長だった。

 家族や共同体のあり方の変化は、朝鮮戦争による特需を経て、1950年代半ばからはじまった高度経済成長のなかで、さらに加速していった。

 1960年代、日本経済は実質で年平均10%を超える成長を遂げ、東京や大阪などの大都市では労働需要が急増した。その結果、人口過剰だった農村から都市へと「民族大移動」と言われた大規模な人口移動が起こり、「金の卵」と呼ばれた若者たちの集団就職も、この時代を象徴する光景となった。

 社会の急激な変化は数字上にも如実にあらわれている。1950(昭和25)年、日本の第一次産業従事者は約49%で、戦前とほとんど変わらなかった。日本人は約半数が農業や漁業などに従事していた。

 ところが、1960(昭和35)年にはこれが約33%に減少し、第一次オイルショックを経て高度経済成長が終焉を迎えていた1975(昭和50)年には約14%まで急落した。他方で1950年と1975年を比べると、第二次産業は約22%から約34%へ、第三次産業は約30%から約52%へと大きく伸びている。

 こうした産業構造の転換とともに広がったのが、都市のサラリーマン世帯だった。

 ひとびとは、家や村落を中心とする従来の地域共同体から離れ、企業という新しい中間共同体のなかへ急速に組み込まれていった。家族総出で農業や自営業に従事する生活に代わって、夫が会社に勤め、妻が専業主婦、あるいはパートタイマーとして家事と育児を担う家族像が、社会の標準として大きな存在感をもつようになった。

1953年に発売された電気洗濯機 ©文藝春秋

 また、企業とは別に、都市へ移り、地縁や血縁の結びつきが弱まったひとびとを結びつけて巨大化した共同体のひとつが新宗教だった。代表格のひとつである創価学会は、公称の会員世帯数が、1958(昭和33)年の75万世帯から、1962(昭和37)年には300万世帯、1970(昭和45)年には750万世帯へと急増した。こうして築かれた全国的な組織が、やがて公明党(1964年結成)の支持基盤となっていく。

 家制度が解体されたあとに出現したのは、孤立した個人だけからなる社会ではなかった。なんらかの共同体なくして個人は成り立ちえない。家や地域との結びつきが弱まるいっぽうで、企業や宗教団体など、新たな共同体がひとびとを結びつけ、その生活を支えるようになった。

 個人の自由もそのなかで現実的なかたちで実現されていったのである。

辻田真佐憲氏
最初から記事を読む 戦後史はなぜ顧みられないのか? それが敬遠されてきた背景にある「居心地の悪さ」の正体とは?