そのまま東に国道479号を渡った先が、終点の平野駅である。ここも跡地が公園(プロムナード)として整備されていた。駅舎をイメージしたベンチや信号機などがあり、ホームがあった場所には古いレールを使ったゲートアーチのようなモニュメント。このレールは、南海平野線で使われていたものなのだろうか。ここには確かに平野線平野駅の記憶が留められている。

 平野駅の目の前は商店街になっており、その名も「なんかいモール」だ。南海平野線平野駅にちなんで名付けられたのだろう。いまでは縁遠くなってしまった南海電車と平野なのだが、「なんかいモール」の名は平野線の記憶のひとつといっていい。

終点・平野駅跡地の手前は小さな公園(プロムナード)に
終点・平野駅跡地。ここに踏切があったのか。信号のモニュメントも
現役時代の平野駅舎をイメージしたベンチ
このあたりに平野駅のホームがあった

なぜ「平野~大阪」はドル箱路線だったか?

 この平野という町は、沿線の他の町村とはひと味違う存在だった。古くは杭全神社や大念佛寺の門前町として開け、戦国時代には町の周囲に環濠を巡らせて自主独立を保った自立都市。奈良街道沿いの交通の要地でもあり、商業都市として栄えたという。

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 つまり平野は、大阪市外でひときわ大きな存在感を示す都市だったのだ。明治に入ってもそれは続き、関西本線平野駅の近くには1887年に紡績工場ができている。これはいくつかの変遷を経て戦後までユニチカ平野工場として続くことになる。

このモニュメントには古いレールが使われている
旧平野駅前にはいまも「なんかいモール」。南海の駅があったことに由来する

 南海平野線は、この平野という都市と大阪を結ぶことを目的として開業した。関西本線の平野駅は町の北外れに過ぎず、より中心部に近い場所に駅を求めたのである。1914年の開業当時、平野以外の沿線はほとんど田園地帯でお客は期待できなかったが、それはさしたる問題ではなかったのだろう。

 ただ、ちょうどその時期は大阪が急速に発展・拡大していった時代だ。1925年には第二次市域拡張が行われ、平野線沿線の町村はみな大阪市に編入されている。平野線効果も相まって沿線の都市化が猛スピードで進んでいった。かくて平野線は“ドル箱路線”としてたくさんの乗客に恵まれることになったのである。

46年前に消えた「決定的理由」

 終戦からしばらくも、平野線は大阪中心部と郊外を結ぶ通勤通学路線として八面六臂の活躍を見せている。ただ、1951年に御堂筋線が昭和町駅まで延伸してからは状況が変わってゆく。それまで平野線で天王寺もしくは恵美須町・南霞町(現在の新今宮)まで向かっていたお客が、途中で御堂筋線に乗り換えるようになったのだ。