「僕らの世代で最初に日本代表へ入って活躍してきた石川の姿を見て、ずっと同じ舞台に立ちたいと思ってきた。でもいざ入ると世界トップの中では全然うまくプレーできない。置いていかれないように必死だったし、今思えば常に僕は石川のことを追いかけていた。僕だけじゃなく、彼がチームに与えてくれた影響はものすごく大きかったと思います」
石川が変えた“常識”
同世代に限ったことではない。石川は、日本代表の常識を変えていった。小野寺が挙げたのは、石川が代表へ入って間もない頃の逸話だ。
「当時のチームでは2段トスを上げる時に『身体を向けた方向に上げる』というのが決まりだったけど、石川は『世界ではこうだから』と背中の方向に上げた。もちろんその時は福澤さんや清水さんに『何やってんだよ』と怒られたらしいんですけど(笑)、でもそれも今となってはただの固定観念だった。前だろうと後ろだろうと、ブロックが3枚から2枚になれば決まりやすい状況ができる。その発想を“当たり前だ”と浸透させたのが石川で、結果として見せていったから、後になってから清水さんも『お前が合ってたわ』と笑い話にできた。そうやって、日本代表を明るく変えていったんじゃないかな、と思うんです」
石川だけでなく、18年には西田有志、20年には髙橋藍という新たな若い力も加わった。西田が連続サービスエースを決めれば、髙橋はどんな強打も涼しい顔でレシーブし、攻撃に入る。「すごい選手が増えてどんどん日本のバレーが明るく、強くなった」と言いながらも、小野寺は「やっぱりアイツなんです」と石川の真骨頂とも言うべき試合として、23年のパリ五輪予選、ストレート勝ちで五輪出場が決まる状況で迎えた、スロベニア戦を挙げた。
「みんなどこか硬くて、1対6で先行されました。僕も相手のショートサーブをレシーブしたらそのままダイレクトで相手コートに返ってしまった。ヤバい、また離される、と思ったところで石川のブロックが出たんです。普段はフワフワしているのに、ああいうところは絶対に逃さない。その後も続けて石川がスパイクを決めて、逆転した。もうそうなったら、誰が活躍しても全く目立たない。“頼れる祐希のプレー集”です(笑)。完璧な勝ち試合にしたのが石川でした」
石川は束の間のオフもバレーボール優先でトレーニングは欠かさず、国内外、すべての遠征時に自ら治療器を持参する。まっすぐ競技に向き合うストイックな姿勢は、若い選手たちの手本となった。食事に対するこだわりも有名で「ご褒美にこれが食べたい、と思うことはない。むしろバランスよく必要な栄養が摂れないほうがストレスになる」と明かすように、海外暮らしの間も基本的に食事は自炊。同じものを食べ続けることも厭わず「自分には必要で当たり前のこと」と貫いてきた。
※約7400字の全文は、月刊文藝春秋11月号と、月刊文藝春秋の電子版『文藝春秋PLUS』に掲載されています(田中夕子「石川祐希 日本バレーを変えた男」)。
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