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「人間失格」を読み返して感じたこと

――又吉さんが敬愛する作家に、太宰治がいます。「火花」と「劇場」を書いたあと、太宰の「人間失格」を読み返したそうですね。

又吉 そうですね。自分が長編小説を書いたあとで「人間失格」を読み返したときに、「そういえばこの小説で戦争ってどういう時間軸にあるんかな」と思ったんです。読み返してみると、主人公である葉蔵の手記には戦争は出てこなくて、最後のあとがきに「空襲で焼け出されたお互いの経験を問われもせぬのに、いかにも自慢らしく語り合い」という一節があるだけなんです。「人間失格」は葉蔵の苦悩と憂鬱が延々と書かれていて、そこに共感はするんですけど、戦争と対比したときに多くの人は「コイツ、何言うてんねん」と感じると思うんです。でも、僕からすると「コイツ、何言うてんねん」ではないんですよ。何か大きな出来事があったとき、それを無視することはできないとは思うんですけど、そこで個人の抱えている何かがなかったことになるのを太宰は避けたかったのかなという気がして。

「いかにも自慢らしく」という書き方は、戦争そのものを揶揄するというより、それを乗り切った人たちの中にあるものを感覚的に捉えていたのかなと。戦争ってそもそもおかしな状態ですけど、そこに突入していく大義名分みたいなものがあって、それと同じように戦争が終わることにも理屈がつけられるじゃないですか。僕は戦争を体験したことがないけど、戦争に負けたときに残るわだかまりみたいなものが、自分のほうに向かってくるんじゃないかと思うんです。それが「いかにも自慢らしく」という言葉に繋がっている気がするし、他の短編を読んでいても、「戦争って何やったん?」という違和感が描かれている。その違和感は太宰自身が感じていたものだと思うし、それを劇的なものとして書きたくなかったんだなと思います。

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「やっぱりスタイルじゃ駄目なんですよ」

――社会と個人を対比すると、個人の抱えている違和感というのはちっぽけなものだとされてしまいがちですよね。だからこそ、それをどう表現されるかが問われると思うんですけど、その「どう表現するか」ということについて、又吉さんはどんなふうに考えていますか?

又吉 人間の生活って、国によって違うし、時代によっても違いますよね。もしかしたら今の日本に身分制度が残っていた可能性もあるけど、現状はそうではなくて。じゃあ身分制度があった時代に比べてマシになったかというと、今の時代にも貧困はあるし、格差もあるし、全然うまく行ってないなと思うんです。世界を見ても、このシステムは全然うまく行ってなくて、「全員がヘタ打ってるやん」と。こんだけ賢い人が一杯おるのに、うまいこと行かへんもんなんやなと。

 じゃあどうするかと考えたときに、選挙権を与えられている大人やから、選挙に行って自分の意思表明はしますけど、僕は政治家ではないわけですよね。世の中で起こっている出来事すべてに対して、自分なりの立場や感情はあるし、僕がものを作るときには感情がすごく重要なので、自分の身のまわりの出来事やニュースで見た出来事に動かされることは多々あって。僕は社会に対する特定のメッセージを伝えるために表現しているわけではないんですけど、僕の身体の中から出てきた表現なんで、僕が普段感じていることの影響を完全に消すことのほうが難しいんですよね。だから僕が社会で起こっていることに対して抱いている感情が含まれているのは間違いないんですけど、そこにはいろんなタイプがあっていいと思うんですよ。シンプルに「戦争は駄目だ」と言う人がおってもいいとは思うんですけど、でも、それって大きく何かを変える可能性は低いよなと思うんです。少なくとも「僕がそれを言ったところで」って気持ちがあるんですよ。僕が社会に対して何かしらの主張をするにしても、やっぱりスタイルじゃ駄目なんですよ。僕がスタイルを貫くかどうかなんてどうでもよくて、僕が欲しいのは結果なんですよね。