「表現」をしていない親より、僕は幸せだろうか
――言葉をどう響かせるかと考えていくと、どういう言葉を選ぶかということももちろん重要ですけど、どこに届けるかも重要ですよね。たとえば「戦争反対」という言葉を届けるにしても、もうすでに戦争はよくないことだと思っている人に届けたところでただの確認にしかならないから、世界は変わらないわけですよね。
又吉 そうですね。それで言うと、一作目、二作目は出口を探して葛藤している誰かを書いて、僕自身もそんなことばかり考えてきたんですけど、そんなこと全然考えてない人もいるわけですよね。いろんなことを思い悩んで表現してきたけど、僕の価値が自分の両親より優れているなんて、ほんまに思えないんですよ。「小説を読んで感想を言え」と言われれば僕のほうがうまいこと言えると思うし、僕が勝てることだってあるけど、幸せという観点からすると、いろんな価値基準に晒されてない親が無敵に見える瞬間があって、僕が仕事で一喜一憂してるのがアホらしく思えるときがあるんです。それをどう捉えるか。それが今連載している「人間」の最終的なテーマやと思います。
僕のほうが狂っているのはわかってるんですけど、僕からすると「なんであの人たちは気が狂わへんねやろ?」と思ってしまうんです。僕の両親は何かを表現するわけでもないから、「表現を残す」という価値基準からすると、何もできなかったようにも見えてしまう。もちろん実際にはきちんと勤め上げて、子供を育ててくれて、僕なんかより遥かに何かを成し遂げたとも言える。そう考えると、ここでもやっぱり揺らぐんですよ。
うちの親父と話してると、亡くなってしまった人が身のまわりにたくさんいて。「あの人、最近どうしてるの?」と聞くと、「ああ、2年前に車に轢かれて死んだよ」と言われたことがあって。すごく淡々とした口調でそう言われたんですけど、僕より死との距離が近いというか、一番身近な人間であるはずなのに、一番遠く感じるんですよね。