●信繁、最後の戦い
慶長20年(1615)5月6日、道明寺・誉田の戦いから殿を務めて豊臣方の各部隊を大坂城に無事退却させた信繁は、翌5月7日に茶臼山に陣を布く。茶臼山は奇しくも冬の陣で家康が本陣を置いた場所である。その東側に毛利勝永、その他の豊臣方の部隊は地形を利用して50間(91メートル)程の谷をはさんだ高地に布陣。その数5万5000。対する徳川方は15万5000。実に3倍の兵力差があった。
数で圧倒されている徳川方に勝つためには家康の首を取るしかない。そこで豊臣方は、徳川方を充分に引き付けて戦い、その隙に西側布陣の明石全登の隊に家康本陣を攻撃させる作戦を立てていたという。しかし毛利勝永隊が前進して、徳川方の大名3人を倒すという予想外の活躍を見せた。このため信繁は作戦を変更して、正午過ぎに3500の兵を率いて、徳川方最強とうたわれる松平忠直率いる越前勢1万5000に突撃。数では圧倒的に劣る信繁隊だったが、高い士気と死を覚悟した捨て身の攻撃で越前勢の右翼を突き崩し、さらに家康を守る最後の砦である駿府衆をも突破して家康本陣めがけて一直線に突撃した。この攻撃を2度に渡って繰り返したため、家康本陣は大混乱。武田信玄との合戦・三方ヶ原の戦い以来倒れることのなかった家康の馬印が倒れた。この時、家康は慌てふためき、2度も自刃を考えたという。さらに信繁隊は3度目の突撃を敢行するも、2度に渡る攻撃で兵の損耗は激しく、態勢を立て直した松平軍に押し戻され、退去を余儀なくされた。
●信繁、馬上から銃で家康を狙撃
この突撃時、信繁は馬上から家康を宿許筒(しゅくしゃづつ)という鉄砲で狙撃したという記録が残っている(『南紀徳川史』17冊目)。この時信繁が撃った弾丸は惜しくも外れ、家康は命からがら馬で後方に逃走。もし家康の急所に命中していればその後の歴史が変わっていたかもしれない。どこまでも悪運の強い男である。ちなみに、宿許筒は今の銃と同じく、連射式だったという。400年前にこのような銃器が存在していたとは驚嘆するほかない。その後この銃は、信繁が戦場で落とす→徳川方の手に渡る→徳川将軍家→紀州徳川家→紀州藩の鉄砲頭・勝野家、という命運を辿ったとされている。
茶臼山(天王寺公園)
所在地:大阪市天王寺区茶臼山町1-108(天王寺公園内)
連絡先:06-6771-8401
アクセス:JR、地下鉄御堂筋線・谷町線「天王寺駅」より徒歩15分
取材協力/岩倉哲夫氏、大阪観光ボランティアガイド協会