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ベテラン職員によると、700手超えの対局も……

 だが、持将棋や千日手はタイトル戦の持将棋をのぞくと、記録に残る一局として数えない。また、点数勝負から駒の取り合いとなった将棋は棋譜としての価値が高く見られないという側面もある。

 この駒の取り合いから泥仕合になることを嫌って、持将棋模様の決着にはトライルールを導入してはどうかという声もある。すなわち、先手の玉は5一、後手の玉は5九の地点に突入すれば無条件に勝ちとなるというルールだ。

 棋界関係者が使うデータベースの公式戦収録棋譜は95000局を超えるが、その中でトライが実現した例は先手が34局、後手が45局ある。そのうち持将棋が成立したのはわずか5局(先手玉トライで1局、後手玉トライが4局)というのも面白い。

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 そして勝負の結果は、先手番トライではトライ側の12勝21敗、後手番トライはトライ側の15勝26敗と、トライを実現したほうが負けになるケースが多い。この結果をみるとトライルールの導入は難しそうだ。

 日本将棋連盟のベテラン職員の方から聞いた話だが、50年ほど前に700手を超えた持将棋局があったらしい。ただ、対局者双方の意向により、記録としては300手ほどを残して、以降の指し手はなかったことにしたそうだ(職員の方は、対局者双方からそれぞれ別の場所でこの一局についての話を聞いたという)。

 おおらかな時代の話とはいえ、大正あるいは戦前派の棋士が、勝負に対する意地と残される棋譜に対する美意識を、特に強く持っていたのだろうと想像される一幕だと思う。

©iStock.com

入玉がなくても339手

 持将棋指し直しではなく、決着がついた一局を見ていくと、指し手の数字が記録に残る最長手数対局は、昭和14年に行われた香落ち戦、溝呂木光治七段―梶一郎六段戦で、その手数は560手。加藤治郎名誉九段の著作には「実際の勝負は二百手あたりで、『双入玉、下手の規約勝ち』と決定していた。が、大先輩七段が意地で投了を渋ったためやむなく560手までおつきあいさせられてしまったわけである」と書かれている。

 戦後の対局をみると、記録が残っている昭和29年以降では、昭和44年2月3日のB級1組順位戦、原田泰夫八段―芹沢博文八段戦が389手で原田勝ち。これが最長とされている。

 平成に入ってからは平成4年4月27日の棋王戦、浦野真彦六段―阿部隆五段戦が364手で阿部勝ち。

 21世紀以降では平成27年1月22日の新人王戦、牧野光則四段―都成竜馬三段戦の343手で牧野勝ちが最長である。他にも300手を超えて、且つ決着のついた対局は過去に15局ほどはあるようだ。

 そのほとんどが持将棋模様であり、点数で決着がついたか、入玉を目指す玉を捕まえて勝ったかのいずれかであるが、昭和56年10月23日の王位戦、淡路仁茂六段―中田章道四段戦は339手という超長手数でありながら、双方ともに入玉の気配がまったくなかった。先手の玉は序盤に2八の地点へ動くとそれからほぼ動かず、後手の玉も1四まで進んだのが最も上段だった。この一局は「入玉の気配がなかった対局の最長手数局」と言われている。

淡路―中田戦の投了図。どちらの玉も自陣にいる

 またタイトル戦の最長手数は、昭和33年1月27、28日の第7期王将戦第2局、升田幸三王将―大山康晴前名人戦の271手で、升田勝ち。平成以降では平成14年12月9、10日の第14期竜王戦七番勝負第4局、阿部隆七段―羽生善治竜王戦の257手で、阿部勝ちだ。