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最長手数の詰将棋作品とは?

 女流棋戦では平成5年6月16日のレディースオープントーナメント、谷川治恵女流三段―蛸島彰子女流五段戦が311手で持将棋成立。勝敗が決着した対局では平成2年9月27日の女流名人戦B級、多田佳子女流三段―鹿野圭生女流1級が289手で多田勝ちという例がある。

 視点を少し変えて、詰将棋における超長手数の作品をみると、江戸時代に伊藤看寿(贈名人)が発表した作品集「将棋図巧」の第100番(「寿」という名がつけられている)が611手詰である。

 将棋図巧が江戸幕府に献上されたのは宝暦5年(1755年)だが、この611手詰は長年にわたって、詰将棋界における超えるべき目標であり続けた。その後、初めて寿を超える手数となったのは昭和30年に奥薗幸雄氏が発表した「新扇詰」の873手である。続けて山本昭一氏が昭和57年に発表した「メタ新世界」が941手詰だ。

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 そして橋本孝治氏が昭和61年に発表した「ミクロコスモス」は1519手詰と、それまでの記録を大幅に更新した。ミクロコスモスは平成7年に改良されて1525手詰となり、これが公表されている詰将棋の最長手数作品である。1000手超えの詰将棋はミクロコスモスと、平成18年に添川公司氏が発表した「新桃花源」(1205手詰)の2作品しかない。

 ちなみに、変則的な詰将棋の一種として「ばか詰」と呼ばれているものがある。詰将棋はルール上、玉方は詰まされるまで最も手数がかかる逃げ方をしないといけないことになっているが、ばか詰では玉方も最も速く詰まされる順を選んで進めるのがルールだ。そしてばか詰では、なんと10000手を超える作品もある。絶対に詰まなそうな局面から双方の協力があると、このような超長手数も実現できるということだろうか。

公式戦のルールを変えた持将棋

 持将棋は千日手と比較して、出現頻度こそ少ないが(これまで千日手は1800局を超えるが、持将棋は200局ちょっと)、その性質上、絶対に長手数になるので、千日手とはまた違ったドラマが生まれる。

 中でも、中原誠名人に加藤一二三九段が挑戦した昭和57年の第40期名人戦七番勝負はすごい。持将棋が1局、千日手が2局出現したので、七番勝負にて10対局が行われる史上空前の事態となった。

持将棋になった中原―加藤戦の終局図

 持将棋となったのは第1局(223手で成立)だが、それ以降は中原勝ち、加藤勝ち、中原勝ち、加藤勝ち、千日手、加藤勝ち、中原勝ち、千日手、加藤勝ちという結果で、加藤一二三名人が誕生している。

 また中原が勝って3勝3敗のタイに持ち込んだ8局目は、ある意味では公式戦のルールを変えた一局ともいえる。当時、タイトル戦の持将棋は半星扱いだった(双方に0.5勝が与えられる)が、この8局目で再び持将棋になると、再び双方に半星が与えられて、加藤の4勝3敗となり、加藤新名人が誕生するという状況だった。そのことからも、この一局での加藤は明らかに持将棋を狙っていたと、中原は振り返っている。

中原誠名人(左)に挑んだ加藤一二三九段(右)。このとき、加藤は3度目の挑戦でついに念願の名人位を獲得した ©文藝春秋

 半星規定はその後なくなったが、もしこの一局で持将棋が成立していたら、タイトル戦の決着局が持将棋になっていた。これこそ空前絶後である。

 新時代の令和を迎えて、超長手数や持将棋の対局もさらに出現するだろうが、その熱戦の中に込められた棋士の、一局に懸ける思いを感じ取っていただければ幸いである。

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