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連載昭和の35大事件

恋人の「局所」を切り取った阿部定事件の真相――逮捕直後の写真で阿部定は笑っている

死体には『定・吉二人きり』の血文字

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア

note

お定事件の満載記事を見て『まア、大事件がありますね』

 その時の模様を妻女はこう語っていた。

 普通の束髪をしたキリッとした人でした。……鼠色の風呂敷包を大事そうにして、着換えの時にも『いじらないでネ』と大切にしていた。この風呂敷包こそ後に判ったが、吉蔵の局所を包んだものであったのだ。

 仕事の済むまで、たばこをふかしていたが、すぐ前向の味噌屋さんの若夫婦の働らくのをながめながら、『若夫婦は朗らかですネ……』とうらやましそうにいうので、『あなただって若いでしょう』といったら、かの女は淋しく眼を落して笑ったという。追手から逃れるかの女の心にチラリと過ぎ去りし良心の淋しさだったのか。

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 19日の夜は浅草の安宿に泊った。すぐにも検挙と気負いこんだ捜査本部はかの女のためにさんざんに"ほんろう"された。まだ高飛した気配はない。必ず市内に潜伏しているという捜査本部の捜査方針は正しかった。事件発生後約3日目の20日午後5時半ごろ、省線品川駅前芝高輪南町76旅館品川館に潜伏中を高輪署の安藤部長刑事が逮捕した。

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 お定は19日午後5時すぎに旅館に来て、『すこし休ませてくれ』といって部屋にはいった。かの女はさすがに焦悴の色が見えた。宿の番頭に頼んで眼帯を買った。右の眼が痛いといってかけてから、東京の新聞を全部見せて下さいといって、しばらく社会面に眼を通していたが、お定事件満載の記事を見て『まア、大事件がありますね』と独り言のようにつぶやいて宿帳に筆を取った。

 大阪市南区南園町209無職大和田直(37)なかなかの達筆である。かの女は風呂に入りあんまを呼んだ。

 若い美青年のあんまさんは、1時間半ももまされていろいろの話題をつくった。気分がいいから泊りますといって、品川発大阪行の切符を払戻し、独りでビール2本のんだ。

 ここではも早、逃れられないと覚悟して、かの女は遺書5通を認めた。