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連載昭和の35大事件

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, メディア

『局所』を隠して見せた妖艶な笑い

 高輪署の部長刑事は宿帳をしらみつぶしに調べていた時に、女文字、しかも関西生れがまずピンときた。これは臭いゾと品川館に乗りこんで、盃盤狼藉のかの女の部屋に乗りこんだ。かの女は大阪生駒山の山上から飛降り自殺を考えたが、もうそれも出来ぬと観念して、間もなく部屋で首を縊ろうと思案していた時であった。

 かの女はあっさりと安藤部長刑事の前に頭を下げた。かの女の捕われた最後の所持品はただ一つの小さな風呂敷包である。嫌がるかの女から包を取って開けて見ると、なかから出てきたものは何であったか……吉蔵の猿股、メリヤスのシャツがハトロン紙に包まれてあった。兇行に使用した刃渡5寸の肉切庖丁はかの女の枕許の蒲団の下から出てきた。だがまだ肝腎の局所が現われない。

 安藤さんにせがまれたかの女は、大切そうに帯の間からハトロン紙に包んだものをチラリと見せて、すばやくまた帯の間に挟んでしまった。その時のかの女の妖しき笑いに安藤さんもかの女のいうままになるより仕方がなかったといっている。

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時を同じくして起こった、アメリカ版『阿部定事件』

 お定捕わる! 高輪署から自動車で護送されるお定は、まるで凱旋将軍のような群集の歓声に包まれた。捜査本部の尾久署前の市電はストップされ、一眼見ようとする群集で新聞社の旗を立てた自動車すら身動きも出来ない。ニュース映画班、カメラマンのフラッシュ――。

 黒地人絹縞の単衣姿のかの女は、女優のような落ちつきを見せて、レンズの前に立った。罪を知らぬかのような大きな明るい瞳。恥らいもなくニッと笑う面長の顔。人間として満された幸福感にかの女は酔っているかのようにほほ笑みつづけた。

 事件の経過を発表する総指揮の浦川捜査一課長は顔中無精ひげだらけ。日ごろの覇気もどこかに消え失せたと思えた数時間前とは打って変って顔面紅潮感激の緊張感。『やあ有難う。有難う』を繰り返すのみ。これで警視庁も辛うじて面目を保ったのだ。『発表! 犯人逮捕です』と2階に駆け上る。――

犯人・阿部定の逮捕を報じた1936年5月21日東京朝日新聞夕刊

 お定事件は海外にも打電されたが、たまたま、アメリカ・ニューヨークの49番街殺人事件が前後して発生し、転電されて東日の社会面にのった。名門の令嬢、大学を出た30歳の女が、巨万の富を持つ四十路を2つ程出た貿易商と結婚。2人は49番街のアパートに愛の巣を営んだ。ある夜愛欲生活の極致から、ベッド・ルームで女の持っていたピストルが突如発射され、男はその場に鮮血に染まって死んだ――という事件。これは女が幾度か目に求めた愛を男が拒んだところから、カッとなってピストルを発射したことが判り、これは裁判の結果『女が男から恥辱を受けた結果の殺人』として無罪だったという記事だった。

 市電の若い女の車掌さんが『切符を切らしていただきます……』の言葉にもドッと笑声が起るという世の中。

 お定の公判は間もなく開かれた。かの女は犯行を包みかくさず陳述し、証拠品も揃って予審から公判へ超スピードで、この年の12月22日に東京地方裁判所で判決があった。

 細谷啓次郎裁判長は条理を尽して、かの女を訓戒し『一層その習癖の矯正に努めるよう』諭して懲役6年の判決を下した。