ファン思いの棋士だからこそ……
高見七段はファン想いの棋士だ。それこそファンのために将棋を指している棋士だからこそ、応援してくれる人の期待に応えられずにストレートで決着がついてしまったことが悔しかったのではないか――。
「花粉症がひどいんですよね」といつもの調子で誤魔化し、声を振り絞り、「1年間を頑張り抜けたのはみなさんの応援のおかげです。ありがとうございます」と言い切ったあと、ファンからの割れんばかりの拍手を受け止められるように腕を持ち上げ、少しだけ上を向いた。
「タイトル獲得は1つの結果」と後のインタビューで語る永瀬新叡王はその間、表情を変えず、しかし少しだけ後ろに下がって、ただじっと待っていた。
そして、いつも盤側で彼を支えてきたバナナは、この日最後まで一切手がつけられることはなかった。
大山十五世名人は「対局になると食欲が増す」
永瀬新叡王はタイトル奪取後、散々話題になった食事の量について「食べたかったから食べました」、「どれも大変おいしくいただきました」とにこやかに答えていた。第2局に至っては「今回でうにが好きになりました」とまで語った。
こういうエピソードがある。生涯A級を貫いた将棋界のレジェンド・大山康晴十五世名人はその棋力だけでなく、盤外戦術の巧みさもまた今に語り継がれている棋士だ。そんな大山十五世名人は「対局になると食欲が増す」「局面が良いと食欲が出てくる」と対談で答えており、そうやって自身のキャラクターを作り上げて、実際そのように食事を摂ることで相手に「私のほうが形勢がいいぞ」と盤外から圧を掛け、流れを引き寄せていたのではないか、と――。
苦しい局面になった時、脳が将棋に集中し、味がわからなくなることもあるという。食欲もなくなる人もいるだろう。すべての食事に美味しかったと感想を笑顔で答えることのできた永瀬新叡王は、とんでもない怪物、いや、現代の大山康晴十五世名人と言っても過言ではないのかもしれない。
第4期叡王戦は、食事も人間模様もただただ圧巻のシリーズだった。勝負すべてを掌握したかのような強さを見せた永瀬叡王と、悔しさに涙を零した高見七段。この二人の対局だったからこそ、これほどまでに盛り上がる棋戦となったのだろう。
ところで、バナナ軍曹というあだ名が完全に定着した永瀬叡王だが、「バナナは当分冬眠します」と宣言した。次は何の軍曹になるのか――新叡王誕生とともに、また新たな将棋めしが生まれる。