『無間道』では死んでも脱出でも解放でもないということをまず示したかった
――この作品は芥川賞の候補になりますが、受賞を逃したタイミングで、もう今後は芥川賞の対象から身を引きたいと宣言されましたよね。
星野 ええ。小説家デビューからだいたい10年目くらいだったんですよね。それで、この作品で賞を獲らないんだったら、そこでもう終わりにしようと決め、その代わり今回は賞というものを意識して書いてみようと思ったんですね。意識してといっても、何を意識していいのか結局よく分からなくて、できるだけハードルを低くしてアクセスしやすいようにという形で書こうとしたんです。でも、その無理を中本さんに指摘されたことで、長い間、自分をぼんやりと縛っていたものから解放されました。それで、中本さんのアドバイスを全面的に活かして書いたのが、次の『無間道』だったんですよね。
――これは自殺がテーマですが、さきほど『ロンリー・ハーツ・キラー』の時とは意識が違うとのことでした。
星野 その頃大学で3年間教えていたんですけれど、その間にたぶん3人の学生が自ら命を絶って、すごくショックを受けてしまって。教えていると、自分が未来を育てているというか、自分には届かない未来を用意しているような気持ちだったので、学生が死んでしまった時、未来が断たれていく感じがしたんです。どうして若い人がこんなにまで死のほうに行かなきゃいけないのかをすごく考えて……というか、そのこと以外考えられないくらい、そのテーマにとりつかれていったんです。
――自殺がブームになった世の中が描かれるんですよね。死体がゴロゴロ転がっているようなグロテスクな話ですが、ユーモアもあって。でも死んだからといっても楽にはならなくて、無間地獄は続いてしまう。死は生々しいものなんだということが描かれています。
星野 そうですね。死んでも、それは脱出でも解放でもないということをまず示したかったんです。それと同時に、にもかかわらずそっちに追い込まれていく状況も書きたかった。自分の意志で死ぬんじゃなくて、追い込まれてそれしかなくなって死を余儀なくされるわけで、解放されたくて選んでいるのではない、という。社会全体が、そうしたことを繰り返しながら劣化していくというか、崩れていくイメージがあります。
今はそういう社会になっていますよ、と言いたかったんです。こんなにたくさんの人が追い込まれて死んでいくという状況を、みんな目をそらして、自分の人生から遠いものとしているんだけれども、実際には誰もが自死と隣り合わせの社会なんだよ、と。そこに目を向けないと、この無間地獄から逃れられない。みんなこの無間地獄の住人であるという世界像を体感してほしくて、ああいう作りにしたんです。書く時にはもはや平易さや読みやすさを一切考えないで、書きたいように書きました。
そうやって『無間道』を書いて以来、自分のそれ以降のスタンスが明確になって、楽になりましたね。
――『無間道』の後、コーヒーブックスの『水族』(09年岩波書店刊)という、水の中の水槽に住むことになった青年の話の絵画絵本を挟んで、大江健三郎賞を受賞された『俺俺』を刊行されますよね。これは自分が増殖していく話。自分同士が蹴落とし合う世の中を描いています。
星野 『無間道』『俺俺』『呪文』は僕のなかでは「自死三部作」と名付けているんです。自死、自殺が中核のテーマになっているんですね。
『俺俺』の場合は社会や環境が人を自殺に追い詰めるわけですよね。いじめ社会のように、みんながそのターゲットになりえて、みんなが追い詰められて死の道に行くしかない可能性がある。ということはつまり、自分で自分を殺しているようなものじゃないかと。自分と自分が殺し合っている状況なのがこの社会じゃないかと思ったんです。
今の社会は多くの人が、おまえなど取り替え可能だと言われたり、自分でそう思ったりしている。そうして自分の価値を見失っているわけだけれども、ということは、その自分を失った状態にあるという意味で、みんなが同じような人間であると言えるわけです。本当は違うのに、みんな自分には価値も個性もないと思っていると、本当にみんな同じになってしまう。それをそのまま書けば、自分が増殖していく物語になるわけです。
――『無間道』の時は巻頭と巻末が繋がってループしていく怖さがありましたが、これはまだ未来に希望がある展開になっていますよね。その4年間の間に変化があったのでしょうか。
星野 僕自身は本当はネガティブな結末って好きなんですよ。もう希望も何もない結末が。だから、わりとそういう形で書いてきたと思うんですけれど、さまざまな読者や友人から、「救いがない」「希望がない」と言われてしまう。じゃあドストエフスキーの作品には希望があるの? と言いたくなるんですけれど(笑)。でも『俺俺』のあたりから、社会のほうもシャレにならないほど醜くなってきたので、ネガティブな結末を書いても、あまり現実社会との温度差がなくなってきた。
ネガティブな結末を書くというのは、「最悪のコースを辿ったらこんな最悪なことになりますよ、でも現実を振り返ってみると、まだましでしょ? まだそうなってないでしょ? だからこの最悪のコースを選ばないようにしようよ」というつもりもあったわけです。でも、小説の外に目を向けても、「すでに最悪じゃん」というのが現在(笑)。となると、最悪の結末を書く意味がなくなってしまったので、今度は、じゃあその社会を脱する出口というか抜け道みたいなものを作らないと自分がしんどいな、と感じ始めたんです。