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一方で活躍の場を広げていった阿部豊監督に見る違和感

 民法での嫡出子と非嫡出子の違いが最近まで話題になったように、出産は家や家族制度と結び付いた重大な問題。かつて、結婚していない男女間の子どもは「私生児」として“日陰の存在”だった。堕胎においても、女性に肉体的にはもちろん、精神的にも過重な負担を負わせてきたことは間違いない。この「志賀暁子事件」も、これほど騒がれなければいけなかったかと率直に思う。

 さらに、暁子にとって「一挙にスターの座から奈落の底へ転落していった」(「日本映画俳優全史女優編」)悪夢のような事件だったのに比べ、阿部豊監督は戦争の時代にも国威発揚映画を手掛け、戦後も「細雪」などの文芸映画から戦争映画、娯楽映画まで幅広く活躍。「日本映画監督全集」(キネマ旬報社、1976年)などにも志賀暁子や堕胎のことは全く触れられていない。不公平といえば、不公平極まりないといえる。

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 暁子は戦後の1956年、「週刊サンケイ」誌上で女優・南田洋子さんと対談した際に、編集部記者に「岸松雄というのは何をする人なんですか?」と聞いている。言外に「ひどい目にあった」と言いたかったようだ。本文の書きぶりはどちらかといえば、志賀暁子に同情的だが、映画界の内情に詳しく、記述が微に入り細を穿っているのが気に食わなかったのか……。

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 著者は肩書にあるように、「小原庄助さん」(清水宏監督、1949年)などで知られたシナリオライターで、監督経験もある。それ以上に映画史的に意味があるのは、名監督・小津安二郎の親友であり、若くして死んだ山中貞雄監督を“発見”、小津と山中を結び付けた“功労者”という点だろう。映画館でたまたま山中のデビュー作「抱寝の長脇差」(1932年)を見て驚き、絶賛した映画評を「キネマ旬報」に書いたのが、山中が世に知られるきっかけだったとされる。

84年経っていまだ変わらないメディアの在り方

「堕胎は、戦時に減少し、戦後には、一時増加したが、まもなく減少して、明白な減少傾向を示している。しかし、実際の犯罪は減少したわけでなく、戦後のわが国の人口過剰などから検挙がきわめてゆるやかになったためである。」と1960年版犯罪白書は指摘した。それには母体保護法の存在が大きかった。2001~2010年の10年間の警察庁統計で、堕胎罪は認知件数、検挙件数がいずれも15件、検挙人員は17人にすぎない。一方、厚労省の統計では2017年度出生数が約94万6000人。これに対し、人口妊娠中絶は約16万5000件(前年度比2%減)で、約6対1の割合。いずれも微減が続いている。

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 志賀暁子の事件を振り返って思うのは、いま同じようなことが起きたらどうなるだろうか、ということだ。堕胎罪が適用されることはまずないが、例えば有名人の女性が妊娠中絶したことが何かで分かったら、週刊誌やワイドショーは放っておかないだろう。大騒ぎになるのは間違いない。事件から84年たって、メディアはまともになったと胸を張って言えるだろうか。インターネットという新しい局面も加えて、事態は一層難しくなっているのが実情ではないか。 

本編「銀幕の女王・醜聞事件」

※記事の内容がわかりやすいように、一部のものについては改題しています。

※表記については原則として原文のままとしましたが、読みやすさを考え、旧字・旧かなは改めました。
※掲載された著作について再掲載許諾の確認をすべく精力を傾けましたが、どうしても著作権継承者やその転居先がわからないものがありました。お気づきの方は、編集部までお申し出ください。