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「銀幕の女王」と関係を持った阿部豊監督

 阿部監督は宮城県生まれで17歳のときに渡米。日本人大スター早川雪洲の書生を振り出しに、俳優として多くのハリウッド映画に出演し、「ジャッキー」のニックネームで呼ばれた。脚本作りなども学んで帰国。監督となって、キネマ旬報ベストワンに選ばれた「足にさはつた女」(1926年)など、モダンでスマートな演出で一流監督に。志賀暁子とは2年前の「新しき天」で監督と出演女優として知り合い、同じ旅館に泊まっていたことから関係ができた。この報道当時40歳。妻と離婚したばかりだった。

足にさわった女(1960年リメイク版)のDVDジャケット

 一方の暁子は25歳。大作映画に連続出演して人気急上昇中だった。「あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇」(朝日新聞社、1976年)には、時代劇スター片岡千恵蔵の相手役を務め、当時公開直前だった「情熱の不知火」(村田実監督)のスチール写真が載っているが、説明には「志賀暁子は素肌に裏地が赤い絹の黒マントを着て夜の銀座を歩いた」と書かれている。映画会社の宣伝戦術だろうが、東日の初報記事にも「近代的な『妖婦』性が期待をかけられていた」とある。映画ファンに衝撃を与える新しいタイプの女優。「狂い咲きの花」「明らかに異色の女優だった」と猪俣勝人・田山力哉「日本映画俳優全史女優編」(現代教養文庫、1977年)にも書かれている。本文の見出し「銀幕の女王」は言いすぎだが……。

「映画女優として身を立てるには監督の愛が絶対的に必要」

 7月28日には東京朝日の夕刊が暁子の「告白」を、東日の朝刊が「手記」を掲載した。告白では「映画女優として身を立てるにはパトロンを得る事と監督の愛を同時に得る事が絶対的に必要なのです。これがなかったら如何なる芸、如何なる美貌の持主でも駄目なのです」と述べた。手記では、これまでの半生と2度の堕胎について説明。「子供が出来ても女の細腕ではどうにもならず預けるのは可哀そうだし、結局堕胎の途しかないのです」としつつ、「陣痛の苦しみで約四時間ばかり気絶しておりましたが、子供の泣き声で正気づきました。私はわれを忘れて子供を抱きよせほほずりしました」と書いた。記事には「無邪気すぎたおめでたさ 邪道の半生手記に綴る」の見出しが付いた。

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1936年7月28日東京朝日新聞夕刊で掲載された「告白」

 暁子は9月5日、堕胎罪と遺棄致死、死体遺棄の罪で助産婦とともに起訴された。翌36年7月7日の東京刑事地方裁判所での初公判。東日8日夕刊の記事は「銀幕の蔭に咲いた悪の華一輪」が書き出しで、「銀幕の裏を暴く 法廷に繙(ひもと)く淪落哀史 志賀暁子のやつれた姿よ」が見出し。暁子は「堕胎を頼んだことは本当ですが、死体を捨てたというようなことは間違っております」と供述した。報道は一貫して、どんなに映画界が不道徳な世界で女優が性的に乱れているかを強調していたように見える。この間に二・二六事件があり、時代はキナ臭さを増す中、5月にはあの「阿部定事件」が起きていた。