「彼女一人の罪だろうか」文壇をも巻き込む論争に発展
同年11月14日の第5回公判では、井本台吉検事(のちの検事総長)が論告で、3~4年前に朝日に連載された山本有三の小説「女の一生」を引き合いに出し、暁子と同じような立場にあったヒロインが堕胎せず、出産した子どもを育てたのと比べて、「被告は母としての資格を喪失したというべきだ」と断罪。懲役2年を求刑した。弁護側は憲法学者で戦後法相も務めた鈴木義男弁護士が最終弁論で「妊娠は主として男性の放縦無責任の結果。堕胎は一種の緊急避難であり、十分斟酌が必要」と反論した。
朝日は17日朝刊から4回にわたって「検事の論告と『女の一生』」と題した山本有三の文章を載せた。その中で山本は、「被告に母性愛が欠けているとは思えない」とし、「彼女としてはあの場合、ああせざるを得ない、より大なる力に迫られて、やむを得ずああしたのではないか」「それは彼女一人の罪だろうか」と訴えた。「彼女を誘惑し、彼女をみごもらせ、彼女を捨てた男は今どうしているか」と男の側の責任も問うた。さらに「婦人公論」1937年1月号は、暁子の手記と鈴木弁護士の「志賀暁子の為めに」に加えて、作家・広津和郎が「石もてうつべきや」と弁護論を展開した。これに対し、作家久米正雄は「改造」同年2月号のコラムで、ゴルフ友達だという阿部監督を擁護。さらに、鈴木弁護士が「文藝春秋」3月号で「志賀暁子のために久米正雄に与う」で再反論するなど、文壇を巻き込んだ論争となった。
11月24日の判決は懲役2年、執行猶予3年。「執行猶予の恩典 暁子嬉し泣き」(朝日)、「執行猶予の恩典に 志賀暁子嬉し泣き」(東日)と25日夕刊はよく似た見出し。“温情判決”に涙を流して感謝したことを強調した。しかし、岩田重則「〈いのち〉をめぐる近代史」(吉川弘文館、2009年)は、この事件から20年以上前の判例を挙げて「やはり堕胎罪をめぐる刑罰は執行猶予付きだった」「志賀だけが例外ではなかった」と結論付けている。そもそも、有名人を堕胎罪で裁くこと自体、性の乱れという世間の風潮に対して「見せしめ」の効果を持つ。「寛刑」も計算のうちだろう。東日の同じ社会面には翌25日の阿部定事件初公判の記事が載った。同じ25日には日独防共協定が結ばれる。
「この恐ろしい人生の矛盾」ひっそりと亡くなった志賀暁子
暁子はその後、文藝春秋創業者の作家・菊池寛の口利きもあって映画界にカムバック。主演映画も公開されたが、既に一時の勢いはなく、やがて脇役に。「女優殺すに刃物は要らぬ。堕胎一つも起こせばいいといった冷罵嘲笑の中で、彼女はあっという間もなくこの世界から消えて行ったのである」と「日本映画俳優全史女優編」は書く。劇団に入って舞台に立ち、結婚して一時は家庭に入ったりしたほか、映画にも出演。子どもを抱えながら童話を書くなど、苦労を重ねたすえ1990年9月、心不全のため、80歳でひっそりと亡くなった。朝日の死亡記事の最後には「『恋多き女』としても世間の注目を集めた」とあるが、事件には触れていない。
暁子には1957年に出版した「われ過ぎし日に 哀しき女優の告白」(学風書院)という著作がある。その中で、一時は阿部監督を愛していたこと、阿部監督から「結婚しよう」と言われたことを書いている。しかし、事件について最も詳しい澤地久枝「志賀暁子の『罪と罰』」(「昭和史のおんな」<文藝春秋、1980年>所収)が「不本意な自伝」と認めるように、そこから暁子の真意をつかむのは難しい。ただ、中で「私は自分の子供に一生私生児として暗い道を歩ませたくありませんでした」と書いている。「婦人公論」1937年1月号の手記は「私の懺悔」と題され、冒頭に自作らしい短歌3首が置かれている。「母の罪許してと泣くひとやの夜 小さき唇まぼろしに見る」「罪の身を裁きの庭に打伏して 小さき魂(たま)におののきて詫ぶ」「世をさけて神に祈り罪に泣く 心のいたでいつの日か癒ゆる」。
そして次のように書く。
「私は、永久に刑罰をば背負わされても尚、贖罪の安心に到達する日は、訪れはしないでしょう。これ程苦しい私ではありますが、今尚あの子はああした運命の外に逃れるべき途がなかったのだと云うような考えが去来いたしますのはどうしたことでしょう。あの子は、私が生きて行く為ばかりでなく、あの子の為に、それは世に出ることが許されなかったような気がいたすのでございます。この恐ろしい人生の矛盾は、私と同じような過程でお産を経験される方の外は分かって戴けないのではないかとさえ思えるのです」
これも彼女の若さ、無邪気すぎたおめでたさだったのだろうか……。