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大バッシングから3年 舛添要一が語る「盟友・菅、森オヤジ、学習院の麻生」と「私が落ちていった理由」

舛添要一インタビュー #3

2019/08/01
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厚労省は年金、医療、生活保護、LGBTまで

――安倍、福田、麻生3代の内閣で厚労大臣を務め、政治学者としてではなく、政治家として行政機構に臨んだ時、厚労省ってどういう組織でしたか?

舛添 相当、大変な組織でしたね。厚労省とは、業務範囲が広いとともに、国民に一番身近な問題を扱うところです。年金、医療、生活保護、LGBTまで。厚労省と関係ない人はいないと言っていい。国民の不満が全部この省に向かうんです。役人も一生懸命頑張っているんだけど、とてもさばききれないところがありました。一番ひどかったのは社会保険庁。改組したものの、日本年金機構がまた昔の社保庁みたいになってしまっていて、政治家のコントロールが効いていないのは問題だと思いますね。

 

 参議院選挙がなければ、ハンセン病家族訴訟に国は控訴していたと思います。私が厚労大臣だった時、薬害C型肝炎や原爆症認定の集団訴訟で、国と原告側の間で一定の解決を図りたいと思い、原告側と徹底的に話し合う姿勢を持つように努力しました。痛感したのは、マスコミを巻き込んで世の中の関心を集めないと、事態は何も動かないんです。

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都庁の職員からの反感

――その後議員辞職して、2014年2月には東京都知事になられますけれども、厚労省と比較した時に、都庁はどういう組織だと思いましたか。

舛添 厚労省よりももっと大変でした。自分自身の反省点でもあるんだけれども、私は都庁へ「ナショナルポリティクス」の頭で行った。しかし東京都とはいえ、基本は小さな村役場と変わらないようなメンタリティーがあって、徹底して「ローカルポリティクス」の発想なんです。国政の理論が通じないという壁に、まずぶつかりました。

 

――歴代都知事があまり登庁してこなかったために、1人しかいなかった秘書を舛添さんは2人にされたそうですね。

舛添 都知事は仕事をしないことが前提になっていたことにも驚きました。それからセクショナリズムの問題。首都高速道路の日本橋区間の地下化にあたって、私は霞が関と都庁をジョイントでつなごうとしたんです。そこで、国交省や経産省から何人出向、というのを各大臣に依頼した。今振り返ると、都庁の人たちからは「自分たちは自分たちのやり方で進めたいのに、あの知事は仕事を朝から晩までやるのに加えて、霞が関から人まで連れてきやがって」という相当な反感があったんじゃないかと。そういった心理的配慮が足りなかったような気はします。