かつて北の湖と一時代を築いた昭和の名横綱・輪島大士。昨年の10月に亡くなった彼の生き様を、元妻・中島五月氏のモノローグの形で綴った『真・輪島伝』が話題を呼んでいる。著者は2007年に「週刊現代」で大相撲の八百長疑惑を告発したノンフィクション作家・武田賴政氏。花籠親方(元幕内・大ノ海)長女である中島氏の視点で描かれる本書から、第3章「輪島との結婚と花籠襲名」の一部を特別公開!

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輪島と広島共政会

 輪島と広島の共政会との結びつきは、本人いわく最初は自民党のさる代議士からの紹介だったそうです。

 共政会といえば、東映の『仁義なき戦い』でも描かれた広島抗争の一方のモデルとしてつとに有名です。

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 その共政会の当時理事長だった山田久さんが、3代目の会長に就任したのは、輪島が花籠部屋に入門したのと同じ1970年。前年に拳銃で撃たれて重傷を負った山田会長は、共政会の内部抗争に端を発する、いわゆる「第3次広島抗争」という戦いの渦中にありました。

 他の組を巻き込んで長いこと報復合戦が続きましたが、その年の5月に両者は和解となり、共政会は統一されて広島の街に平和が訪れました。

 トップに立った山田会長は、1987年にお亡くなりになるまで共政会に長く君臨し続けたのです。

 輪島が父を巻き込むトラブルになりかけたのは、第3次広島抗争の最中のこと。ある銃撃事件が起きたとき、仲裁に入った山田会長が輪島のしこ名入りの浴衣を身にまとっていて、その姿がテレビのニュース番組で大映しになったのです。

輪島大士 ©朝倉宏二/文藝春秋

 父はたまたまその映像を見ており、そこで初めて輪島と山田会長との関係を知ったそうです。相撲協会のなかにもこの映像を見た親方がいて、父に連絡をしてきましたが、広島の関係スジからも時を経ずして父に連絡が入りました。

「輪島は山田さんと、どがぁ関係ですかいの」

 抗争の最中ですから、電話の声音は真剣です。返事次第では花籠部屋に押しかけてくるやもしれず、そうなればマスコミを騒がせ相撲協会にも累が及ぶ事態となります。

 父が輪島に質したところ、山田会長との関係は大タニマチというほどではないとのことでしたが、宴席に呼ばれ、ご祝儀を頂いたこともあったようです。しこ名入りの反物は、その際に贈ったとのことでした。

 それは稽古場で「泥着(どろぎ)」と呼ばれるもので、稽古後や取組直後に羽織る普段使いの浴衣です。横綱・大関をはじめとする幕内の関取衆は、毎年夏になるとその反物をいくつもこしらえて、タニマチや親しい人たちにご挨拶がてら差しあげるのが習わしなのです。

 山田会長は「輪島」の名の入った反物を浴衣に仕立て直して身にまとい、横綱の威光を背に、命がけで組織を治めたのでしょう。

 父だってかつて巡業部長をしていましたから、そちらのスジの方々とのお付き合いはもちろんあります。この件はいろいろと手を回して丸く収めてしまいました。

 相撲と暴力団の関係については、父から少しだけ聞いたことがありますが、古くから両者は本場所興行や地方巡業を通して深い関係にあったそうです。

 そもそも巡業を相撲協会の全力士が一堂に会す形式に改めたのは、本場所が年6場所開催となった1958年ごろのことです。

 それ以前は本場所開催が年に2、3回しかなかったことに加え、一場所の興行日数も今よりもっと短かったため、その収入だけでは相撲部屋を経営していくことは困難でした。

輪島とともに「輪湖時代」を築いた北の湖 ©文藝春秋

 そのため各部屋の稼ぎの多くはもっぱら全国各地を巡回興行することで得られていたのです。本場所の合間を縫って行う巡業は、師弟関係が同じ系統の部屋同士が組んで行うのを常とし、看板力士がいれば興行成績だけでなく、ご祝儀の収入も見込めます。

 そしてこれら利益を分け合う各グループを、父が現役でいたころは「組合」と呼んでいました。「二所ノ関組合」だったり、「出羽海・春日野組合」、「高砂組合」等々、たくさんあったそうです。

 巡業形式が組合別ではなくなった後も、それらは歌舞伎や落語など他の伝統芸能と同じように、「一門」と呼びならわす派閥のようなものとして残りました。

 現在の日本相撲協会は、これら一門を5つに統合し、それぞれから選出された親方衆が過半数を占める、「理事会」によって運営されています。

 戦後の花籠部屋が二所ノ関部屋から独立したとき、当時の父は部屋独自の興行で生計を立てようとしていたのですが、若乃花という人気力士が登場するまで切符はなかなか売れなかったそうです。

 地方で相撲興行を開催しようとすれば、その興行権を買ってもらう「勧進元(かんじんもと)」を求めて、地元の興行師と懇意になる必要があります。興行師はその土地の有力者との利害を調整し、チケットを売りさばいて利益を得ます。

 大相撲と共生関係にある彼らは、あらゆるトラブルを処理する地域の顔役を兼ねていることが多く、その実態が暴力団そのものだったり、またはそれに関係する人たちであったりすることが多かったのです。