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暴力団、八百長、突然の引退……元妻が明かす“天才横綱”輪島大士の壮絶な真実

『真・輪島伝 番外の人』(廣済堂出版)

2019/08/09
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 巡業部長をしていた父は、山口組3代目組長の田岡一雄さんには興行面でずいぶんと助けてもらったようで、関西方面におもむけば必ずご挨拶に伺い、正月には田岡さんからの年賀状がわが家に欠かさず届いていました。

 それだからか、お相撲さんには博打好きが本当に多い。師匠のなかには勝負勘を養うためだといってそれを奨励する人までいます。

田岡一雄 ©共同通信社

 巡業地の支度部屋で花札に興ずるのはお相撲さんを取り巻く風物詩ですが、やがてそれは競馬や競輪、競艇などの公営ギャンブルに高じていきます。それに止まらず、繁華街の裏カジノなどにも出入りするようになれば、それら鉄火場を支配する広域暴力団とのお付き合いも生まれます。身のほどを知らなければ破産する力士も出てくるわけです。

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 輪島と広島の暴力団との関係も、そういった過去の因習のなかから生まれたことなのです。この大相撲の社会が生計を立てていくためには、かつてそういった組織が必要だったときもあったのだと、私は理解しています。

 実を言うと、結婚前に輪島に連れられて、ご挨拶のため山田会長を訪ねたことがあります。広島駅に着くと会長が差し向けたリムジンに出迎えられました。そこから港に直行し、岸壁に接岸している船に乗り込むと、極上の牡蠣が振る舞われました。

 夕刻になって繁華街に繰り出したのですが、通る道の角々にはすべて組員の方たちが立って警戒しています。まさしくヤクザ映画のなかに迷い込んだかのようでした。

結婚という親孝行

 輪島の金銭感覚や職業倫理は、相撲社会の来し方とはまったく関係ありません。もちろん山田会長からの薫陶などでもありません。つまり相撲部屋に入門してからそうなったのではなく、生まれながら大きくズレていたようにしか思えないのです。

 どうして私がそんな輪島と結婚する気持ちを貫くことができたのか、それを自分自身突き詰めて考えてみれば、つまり父親孝行をしたかった、ということに行き着くのだろうと思うのです。

 そこにはやはり「花籠名跡」の継承問題がありました。戦中から戦後にかけて父と母が大変な苦労をし、その後も手塩にかけて大きくした相撲部屋です。それを中島家以外の者に継がせるのは嫌なのだろうなと、私は察していました。

 でも輪島は夜の銀座の有名人ですし、常識ではかることのできない男ですから、すんなり家庭に入るとは思えませんでした。

 私は父に、「あの人と結婚しても大丈夫かしら」と不安な気持ちを正直に打ち明けました。

 すると父は「いいかいメイ」と言って、こう諭(さと)されました。

「サラリーマンと結婚したら、好きなものを食べたり飲んだりする生活なんてできないんだよ。この花籠にいるからこそお前にも贅沢をさせてやれるんだ。そこのところをよく考えないといけないよ」

 そして呟くようにこう言いました。

「あいつだって髷(まげ)を切れば変わるさ、決して悪いやつじゃないんだから」

1980年9月、花籠親方を中央に右が長女の五月、左が後妻の富美子(中島五月氏提供)

 お相撲さんが女性にモテるのは、チョンマゲを結っているときだけだと、父はそう言いたかったのでしょうし、やがて土俵を去るときがくれば、次は指導者として地に足のついた生き方をせざるを得なくなるに違いないのだと――。

 私は父の言葉をそう解釈して輪島と一緒になることを決意したのです。

 父は娘の私を心から愛してくれていました。物心ついたころから地方場所にも一緒に連れて行くほどで、それこそ顔じゅう舐められるのではないかと思うほどの子煩悩ぶりでした。アメリカに旅立つときなど、「行かないでくれ」と言って空港で泣かれてしまい、閉口したほどです。

 輪島との結婚は、父の言う「贅沢な生活」を維持したいからでは決してありません。もちろん生きていくうえでお金は必要ですが、それが目的では不純というもの。単純に、この花籠部屋を継ごうと考えたのです。

 でもそう勧める父に従ったのは、それまで父の庇護のもとから離れたことなどなかった私がそこから抜け出ようなどと考えも及ばなかったという以上に、空港での父の涙が、ずっと私の心に染み込んでいたのかもしれません。

 でもいつかあの世でお父さんに再会したら私は言いたい。お父さん、結局この結婚は失敗したお見合いみたいなものだったね。あの人は何も変わらなかったよ。本当に、本当に大変だったのよ、と。