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文氏が少年時代に暮らした家を訪ねた

 鳩山氏とは対照的な文氏のルーツを辿ると、彼が晩餐会のメニューに故郷の食材を選んだ理由が浮かびあがる。以下は、彼の自伝『運命』からの引用だ。

〈(両親は)祖父母を残し、まだ乳幼児だった姉を連れて避難してきた。父の家族は、近い親戚も一緒に避難してきていたが、母の親戚は誰も来られなかった。母の実家は興南の北側に流れる成川江の向かいにあったが、興南に渡るための橋を米軍が閉鎖したためだ。(巨済島で)父は捕虜収容所で働き、母は卵を巨済で安く買い、釜山まで行って売る行商をし、貯金をした。貯金したお金で文が小学校に上がる少し前、釜山の影島に移住した〉(*一部要約)

 そこでの生活は貧困を極めたという。

〈(父は)工場で靴下を買いつけ全羅南道の小売店に卸す商売をしていた。だが、父に対する未納金が膨らみ、取引先の倒産で借金は増えていった。父の事業の失敗の後は母が一家の大黒柱となった。その仕事の一例は、救援物資の洋服を市場の屋台で売る、近所で小さな売店の経営、練炭の配達などだ〉

 記者は、釜山の影島にある古びた5階建てのアパートを訪ねた。そこに今も、文氏の母と妹が住んでいるという。入口にいた管理人に来意を告げると「絶対ダメだ」と断られてしまった。

「この数週間、文在寅のお母さんは、教会の礼拝に姿をみせていないので、体調を崩しているのかもしれない」(近隣住民)

ジャージャー麺の出前をとる母

 母は敬虔なカトリック信者で、文氏も小学校3年のときに洗礼を受けた。

「お母さんは月に一度くらい、うちのジャージャー麺の出前をとってくれるんだ。文在寅が大統領になってからもジャージャー麺と酢豚を注文してくれて、とても礼儀正しいお母さんですよ」(近隣の中華料理店)

 実家近くの小高い丘の上には、文氏一家が釜山で初めて生活した家も残っていた。現在は改築されて別の住人が住んでいた。

文氏が高校生まで暮らした家と現在の住人
文氏の母と妹が暮らすアパート

  「当時はブロックを積み上げただけの家々が立ち並ぶ貧しい地区でした。文在寅の母は昔、ここの練炭をトラックまで運んで金を貰っていた。女の人がやる仕事じゃなかったですよ」(別の住民)

 子供たちも母の仕事を手伝ったというが、黙々と手伝う弟に対して、文氏は煤がつく練炭配達の仕事を恥ずかしがり、ブツブツ言って母を困らせたという。

大学時代に学生運動に傾倒

 成績優秀だった文氏は、釜山の高校を卒業後、ソウル大学を受験するも失敗。私立の慶熙大学法学部に進学し、ソウル市内で下宿生活を始めた。この大学生活で、文氏は学生運動に傾倒し、同じ大学の声楽科に通っていた現在の妻・金正淑(ジョンスク)氏と出会う。

 1975年と、80年の二度、学生運動により逮捕された文氏は大学を卒業後、1982年から弁護士活動を開始。この年、妻との間に長男をもうけ、翌年には長女が生まれた。

 文氏は、後の大統領、盧武鉉氏と共に弁護士事務所を開き、“人権派弁護士”としての道を歩んだが、政治への関心は薄かった。

「もともと彼は弁護士でお金を貯めたら、歴史学者になりたいという夢を持っていた」(当時を知る知人)

 だが03年に盧武鉉政権が誕生すると、文氏は青瓦台に入り1年間、民情首席秘書官を務めた。

 04年には、南北離散家族再会行事で、文氏は母親とともに北朝鮮の金剛山に渡った。ここで母方の叔母と再会している。

「文氏は当時、『今回の機会に(北の家族と)会った人々が、ずっと手紙の交換ができるよう南北間当局レベルで協議が推進されればよい』と発言しています」(公安関係者)