型にはめられるのが嫌だった。その制約がなくなって一気に2年で6冊出した
――最初の頃はシリーズものもお書きになっていましたよね。『失踪症候群』(1995年刊/のち双葉文庫)、『誘拐症候群』(98年刊/同)、『殺人症候群』(02年刊/同)の症候群シリーズ、それと明詞という架空の時代の『鬼流殺生祭』(98年刊/のち講談社文庫)、『妖奇切断譜』(99年刊/同)の明詞シリーズ。
貫井 症候群シリーズは最初から3部作で書いてくれと言われて考えた話です。明詞シリーズは高校生の時に書いたものが原型で、プロットやトリックはその頃書いたもののままです。本来僕が書きたかったタイプの典型的な本格ミステリなんですけれども、僕がデビューした頃にはすでにそういうものを書く人がいらっしゃったので、わざわざ僕が書くことはないな、と。自分の個性は別なところで発揮するべきだと気づいたんです。これは書き下しだったんですが、雑誌連載のお話をたくさんいただくようになって書き下しができなくなってしまって、なんとなく続篇は宙に浮いたままになってしまいました。
――そこからどんどん量産されていくわけですが、青春ものから社会的な問題を扱ったものからコミカルなものまで、さまざまですよね。ご自身で振り返ってみて、あれがターニングポイントだったなというものはありますか。
貫井 もともといろんな作風を書いてみたい気持ちがありました。その点で僕が昔よく言われていたのは、東野圭吾さんに似ているということ。その通りで、僕は東野さんが好きで、東野さんのような小説家としての展開ができたらいいなと思っていたんです。いつだったかな、作風が違うものを3作品出した年があったんです。そこがターニングポイントですね。
98年の『光と影の誘惑』(のち創元推理文庫)、『誘拐症候群』、『鬼流殺生祭』、99年の『転生』(のち幻冬舎文庫)、『プリズム』(のち創元推理文庫)、それと『妖奇切断譜』。2年で6冊も出したという、もう二度とできないだろうことがあったんです。そのへんからやっと自由に書かせていただけるようになって、「貫井はいろんなものを書く小説家」というイメージが作られたんじゃないかなと思う。
今は違うかもしれないけれど、昔は新人は「こういうものを書け」とオーダーされたんですね。僕の場合デビュー作の『慟哭』が警察小説のテイストとどんでん返しという二つの顔を持っていたわけですが、みんな警察小説ばかりオーダーしてくるんですよ。僕は意外性を持たせるためにどんでん返しに警察小説の衣を着せただけなのに、衣のほうばかり注目されていました。それで書いても書いても編集者にボツにされる時代が続いたんです。どうしてボツにするのか訊いたら「なんとなく」と言われたりして。
――そんなひどい対応があるんですか。
貫井 そうそう。事前にプロットを出してOKをもらって、その通りに書いたのにボツとかね。理不尽な時代もありました。それでようやく自由に書かせてもらえるようになって喜んでいろんなタイプのものを書いて、2年で6冊出したってことですね。
――アイデアに困らないんですね。
貫井 とにかく型にはめられようとしていたのを嫌だ嫌だと押しのける苦労をしていた頃に比べれば、もう嬉しくてしょうがなくって、ボンボンといろんなものが出てきたんだと思います。
――たとえば『転生』は心臓移植を受けた大学生の話ですよね。その後、『空白の叫び』(06年刊/のち文春文庫)で少年犯罪を扱ったり、『灰色の虹』(10年刊/のち新潮文庫)では冤罪の問題を扱ったりと、今世の中で問題視されているものから題材を得ているところはありますか。
貫井 松本清張は嫌いだとか言っているのに、僕自身は結構社会派の小説家だと思われているところがありますよね(笑)。東野さんも時事問題を扱うことがありますが、最近気づいたんですけれど僕が社会問題をテーマにするのは島田荘司さんの影響なんだなと。島田さんは松本清張がお好きだと言っているから、間接的に清張の影響があることになるかもしれませんが、僕にとってのマイスターは松本清張でなくて島田さんです。
――ちなみに清張に興味が持てなかったというのは、どうしてですか。
貫井 だって10代の子どもが読むものとして松本清張はちょっと地味で夢がないですから。不倫がどうのとか、汚職がどうのとか。高校生はなんの興味もなかったんです。