ドル買い事件の政治的半面
井上はドル買いの大勢に対して無制限に売り応じた。売り応じたといっても正確にいえば横浜正金銀行に対して無制限売りを命じた。無制限に売ることによって、金本位の堅持決意を明かにするとともに、ドル買いの無用を市人に信じさせドル・ラッシュを沈静せしめようとした。
もし井上大蔵大臣の地位が長く続いて、正金の統制売りが井上の目算通りに結末まで進んだら、あるいはこの取付は少なくとも一応沈静したかも知れない。ドル買いが別に利益でなかったことになっていわゆる“三井のドル買い”も、その有終の美? をなさず、従ってドル買い事件そのものも問題にならなかったかも知れない。ところが同じ年の暮も迫った12月12日、若槻民政党内閣は内部不統一で頓死し、代って出現した犬養政友会内閣によって即時金本位の停止が行われ、円貨の暴落即ちドル貨の急騰となり、ドル買い連中に“巨利”を許したこととなった。ドル買いの本尊? 三井財閥が巨利を博したことになったのはいうまでもない。のみならず、若槻内閣の頓死もつまりは三井財閥が手を回して毒殺したのだという臆測まで発生した。
若槻内閣の頓死の経緯は、ドル買い事件の政治的半面として是非語らねばならぬ。それには先ず経済的半面の説明が必要である。
民政党内閣の一閣僚に過ぎなかった井上
前に述べた正金の統制売りを敢てさせた井上の肚の中はこうであった。一つには、正金銀行のドル売の約定は――多く2月とか3月とかの先約定となっていた――如何にそれが多くなっても、当時まだ大量に残っていた正貨保有高の中から現送して――為替迭金でなくて現ナマによる送金を正貨現送と称した――決済することができると考えた。もう一つ井上の肚の中は、ドル買いの大半はどうせ思惑による鞘カセギだ、鞘がないと極まれば、決済期が到来しても解約するものが沢山あるだろう、とこういうことであった。
井上はそうした事情を特に重要に考えて、その“決戦”の一応の時期を年末12月と考えた。年末の決済期が迫るに連れて、円資金の調達に困る向きは勿論、受渡の実行を不利とするドル買者流の中には、先約定の解約を申し出るものが続出するに違いない、そうすればこの9月以来の“ドル買い合戦”は明白に自分の勝利に終るもんだと井上は考えた。
しかし井上のこの自信には大きな盲点があった。井上は金本位に政治的行懸りを持つ民政党内閣の一閣僚に過ぎなかった。井上はそれに気がつかなかったのである。若し若槻内閣そのものが倒れるか、それとも何か別の事由のために大蔵大臣井上準之助の地歩が弱まった場合に、金本位が果して堅持され得るかどうかは少しも確かではなかったのである。
既に若槻内閣はその年の9月満洲に起こった事変をさえ、有効に処理し難い状態にあった。従っていつ政変が起こるかわからぬといったのが当時の実情であった。