資金獲得のために銀行襲撃を敢行して一世を驚倒させた「大森ギャング事件」の真相を張本人自ら迫真的に記す。

初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「ギャング共産党事件」(解説を読む)

 昭和3年の秋、京都御所で挙行された御即位の大典の頃、私は多少共に労働運動に関係していると云う事だけで、その間1ヵ月余警察に留置されなければならなかった。

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 当時僅か19歳の少年の私にとって社会主義の何であるかは解る筈はなかったのであったが、この取扱いは私の心境を著しく刺戟するものがあった。私は次第に社会主義の書物を読むことが多くなり、遂にマルクス主義の真理を恐れる支配者が、これを信奉する者に対する迫害であると云う理解に達するに至った。当時は治安維持法が制定され、日本共産党は非合法党として地下に追いやられた上に、共産党員に依って動かされていると思われる労働農民党や労働組合全国評議会等までも解散された程であった。私は次第に共産党関係の団体や、これに共鳴する労働者、学生等と交ることが多くなってきたのである。

狂信的要素が更に強くなって来た武装共産党

 斯様にして昭和3年の3月15日の共産党大検挙に次ぎ翌4年4月16日の第二次検挙が行われ一時終熄したかとみえたが、今度は甚だ抗争的な集団として現れた。所謂武装共産党がそれである。勿論その大衆的基盤は小さいが狂信的要素は更に強くなって来たようである。この狂信的団体の非合法行動に最も都合のよいことは、労働者、農民、一般大衆の声を代表する政党や組合が言論の自由を奪われて腑抜の状態となっていたことである。多くの経験をもち良識ある社会運動家の中にも活動の自由を失って共産党の同情者となった人が多い。

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 私は昭和4年から6年まで幾度かの検束、拘禁を体験しつつその年の暮漸く京都拘置所より釈放保釈されたのであった。引受人は河上肇博士の義弟にあたる大塚有章君であり大塚君は当時大山郁夫氏等と共に新労農党を結成されたが、前記の様な状勢を察知して、同党を解党されて、共産党の同情者としての道を歩んで居られたのであった。

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 拘置所で私は幾分か自己反省の機会を与えられたようであり、自分の一般常識の欠如していることに気付き、大塚君の家では、専ら勉強を続ける以外は、雑用でも何でもして、厚情に応えたい心持であった。また大塚君は既に30数歳の年齢でもあり社会生活の経験も豊富で温厚な性格の持主であったから、当時のグループからも信頼は厚かった。彼は共産党関係の狂信的要素の多少薄くなって、反省的勉強を続けている私を、却って謙遜な勉強家として信頼してくれたのであった。