「役者のような方がたずねてこられた」
ある日私が丸善からナチスの『階級と民族』に関する小冊子を買って読んでいると、大塚君は既にナチス批判を志し勉強していると思ってくれた。私は余り従来のものの考え方に囚われずいろいろなものを読みたいと云う心持からやりだしたことであったにも拘わらず……この大塚君の素直な心持と大塚夫人や幼い子達の、弟とも兄とも思ってくれるような温かいもてなしに、人間的な信頼が結ばれたのである。間もなく大塚有章君は東京へ移り私は京都の母の家に住むことになった。
「役者のような方がたずねてこられた」といって母が私を驚かしたのは昭和7年の夏も盛りのことであった。母は大塚有章君であれば旧知の筈であるにも拘らず、わからなかったようである。絽の羽織、パナマ帽にステッキを持つ彼はそれ程別人の様に思われたのであった。間もなく私と大塚君とは比叡山麓の八瀬に行き、茶屋の一室を借り、久濶を叙し合った。
大塚君は、この春上京以来、日本共産党に関係し、特に党の労働者、農民の基本組織とは別に、専任中央委員のもとに、本隊の前進を助ける為、資金、家屋等の面倒を見る一方に、暴力団やテキ屋のなかにも党員を潜入せしめ、有事の際には背面の備えをする組織が構成されたが人を得ていないようであり、かような仕事は基本組織の中で鍛えられた者のみが耐えることが出来ると考えるからと云って、私の上京を促したのであった。私にも異論がなかったので東京での連絡場所を定め、別れたのである。
鍵をもって開いたトランクには各種各様のピストルが数十丁
私が上京して2、3回の街頭連絡をした後、銀座で大塚、今泉善一、石井正義、中村経一の四君と落合って、芝公園の奥深い家に案内された。その家の離れの一室に五人が額を集めて、一つの行動について謀議が交された。
大塚君がこの仕事について説明するのに、ある有名婦人から有力な物件を引取るに際し、その婦人には必ず尾行刑事がついて来るとみなければならず、その場合、大塚が婦人より、物件を受取った時に、大塚を安全に逃してやる仕事であり、婦人の方は、よしその場で検挙されるようなことがあっても、そのままにし、あくまで、大塚とその渡された物を護衛してくれるようにとの事であった。
やがて今泉は離れ屋の押し入れから中型のトランクを重たげに取り出して、5人の中に置き、鍵をもってトランクを開くと、そのなかに、各種各様のピストルが数十丁“ギッシリ”とつめられている。彼はその一丁一丁の安全かぎを外し、遊底を動かし操作を示し、一人一人に手渡したのである。