『戦国大名・伊勢宗瑞』(黒田基樹 著)

 これほど有名なのに、ごく最近まで、実像が不明で、所伝のほとんどが間違っていた、というのが北条早雲である。かつて早雲といえば伊勢の素浪人に過ぎず、一山当てようと仲間たちと語らって駿河に下り、権謀術数を駆使して大名にのし上がった梟雄(きょうゆう)であり、下剋上の権化と見られていた。八十八歳まで生きた長命の武将としても知られていたが、実は、すべて間違っている。そもそも「北条早雲」は存在せず、正しくは「伊勢新九郎盛時」であり、出家してからは「早雲庵宗瑞(そうずい)」である。享年は六十四だ。数百年にわたって誤って伝えられてきた宗瑞の生涯と実像を、最新の研究成果を盛り込んで描いたのが本書である。

 室町幕府の高級官僚として将軍に仕えていた宗瑞が、なぜ、駿河に下ったのか。甥の今川氏親(うじちか)を守るためだといえばカッコいいし、小説的だが、実際には切実な経済的事情もあったと著者の黒田氏は言う。京都にいる領主が地方の領地から年貢を送らせて暮らすという仕組みが崩壊し、将軍の側近といえども、まともに食えなくなってしまった。京都では食えないから、宗瑞は下向したのだ。

 伊豆討ち入りの際、宗瑞が出家したことも不思議だった。伊豆の支配者・足利茶々丸は将軍・義澄(よしずみ)の仇である。母と弟を茶々丸に殺されたからだ。義澄の意を汲んで宗瑞は伊豆に攻め込み、茶々丸と戦った。なぜ、頭を丸める必要があったのか釈然としなかった。宗瑞は義澄の父、堀越公方・政知(まさとも)にも家臣として仕えており、伊豆に領地ももらっていたのではないか、と黒田氏は言う。主の妻子の弔い合戦だったとすると、宗瑞が出家したのもうなずける。

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 宗瑞の最初の城と言われる興国寺城(現・静岡県沼津市内)が伊豆討ち入りの拠点として氏親から与えられたという解釈も斬新で説得力がある。宗瑞がもらった領地(現・同県富士市内)と興国寺城が離れているのはなぜなのか、というのは昔からの謎なのである。

 伊豆、相模と征した後、隣国の武蔵に侵攻して扇谷(おうぎがやつ)上杉氏打倒を目指しそうなものなのに、宗瑞は房総に渡海して真里谷(まりやつ)武田氏と小弓原氏の抗争に介入している。なぜ、武蔵ではなく、房総なのか。海上権益を守るためだ、と黒田氏に説かれると、簡単に腑(ふ)に落ちる。慧眼である。江戸湾を支配することは海上交通を支配することを意味する。扇谷上杉氏を倒して領地を拡大するより、海の支配権を強化する方が経済的に旨味があったのであろう。そのために真里谷武田氏と協力する必要があったのだ。伊豆諸島を巡って東相模の三浦道寸と激しく争ったのも同じ理由であろう。

 宗瑞の生涯を俯瞰する、万人向けに書かれた評伝だが、その内容は深く的確で、多くの示唆に富んでいる。黒田氏の著作には常に新たな発見がある。

くろだもとき/1965年、東京都生まれ。早稲田大学卒。駿河台大学教授。専門は日本中世史。『関東戦国史』『百姓から見た戦国大名』『北条氏政』『今川氏親と伊勢宗瑞』など著書多数。

とがしりんたろう/1961年、北海道生まれ。北海道大学卒。小説家。『早雲の軍配者』『北条早雲』など著書多数。

戦国大名・伊勢宗瑞 (角川選書)

黒田 基樹

KADOKAWA

2019年8月26日 発売