奥山和由にその映画人生を語ってもらった新刊『黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄』の取材は、これまでの筆者の著書の取材とはやや異なる感覚があった。
というのも、拙著の大半で扱ってきたのは、筆者が生まれる前の話。そのため、「歴史としてまとめる」というのが基本的なスタンスになる。
が、『黙示録』は違った。奥山がバリバリに活躍していた一九八〇年代後半から九〇年代にかけては、筆者自身もまたバリバリの映画青年だったからだ。そして、奥山作品に当時の他の日本映画とは異なる刺激を感じていたため、とにかくよく追いかけていた。
だから、取材時に出てくるエピソードについても映画史の証言としての価値だけでなくなる。リアルタイムの記憶と結びついて、「え、あの時の裏にそんな事情が――!」という筆者にとっての「青春時代の答え合わせ」の側面もあったのだ。
今回取り上げる『その男、凶暴につき』もまた、公開当時に衝撃を受けた奥山作品だ。
その経緯は『黙示録』を読んでいただくとして――奥山の大きな功績の一つに、本作で「お笑い芸人・ビートたけし」を「映画監督・北野武」にしたことが挙げられる。
十一歳だった筆者にとって、当時のたけしのイメージは――フライデー襲撃事件があったとはいえ――やはり「タケちゃんマン」や「元気が出るテレビ」での愉快な芸人。それが映画を撮ると聞いても今一つピンとこなかった。
テレビでのスポットCMでは「子どもには、見せるな!」というナレーションが連呼されていたが、それも当時よくあった煽情的に盛り上げるためのハッタリだろう――くらいに思っていた。それで、よく情報も得ないまま、映画館へ向かった。そして知ることになる。そのコピーが、決してハッタリでなかったことを。
日本映画にありがちな抒情性や情感、劇的な盛り上げを一切排した冷たいタッチの映像と、その中で展開される生々しい暴力。今でこそ北野映画の代名詞ともいえるそのテイストだが、「たけし=愉快な芸人」というイメージしかない十代初頭の身にとっては、いきなり大事故に遭ったような強烈なカウンターパンチを脳髄の奥深くに喰らった。
何より、画面に映し出される暴力刑事役のたけしの無表情の内側から湧き出てくる静かな狂気、そして殺し屋を演じた白竜――この時は演じているのが誰なのか知らなかったために余計に強く感じた――本当にヤバい人なのではというリアルな恐怖。それまで好んで観てきたハリウッドのアクション映画の「作りものの暴力」とは明らかに異なる剥き出しの暴力性があった。