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プロパガンダに利用されやすいアートでもある――津田大介が「平和の少女像」を美術館に展示したかった理由

津田大介インタビュー #2

2019/11/07
note

「プロパガンダ」という言葉をどう解釈するか

――不自由展の作品解説には、「この部屋の中は、まるで展覧会の中のもう1つの展覧会のような雰囲気を醸し出しています」と書かれていて、展覧会の中の展覧会というちょっと特殊な構造になっています。だからこそ、正義と正義のバッティングが起きた、実行委員会ではなく作家と直接交渉する形を取っていればもっと違う経過をたどったという可能性はないですか。

津田 もちろんその可能性は否定しません。たらればとしてはそういう言い方もできるでしょう。ただ僕の中ではその問いにはあまり意味がないんですね。2015年の「表現の不自由展」を見て感銘を受けたことがスタート地点になっているし、2015年以降、同様の問題はいたるところで起きていて、より「不自由」な状況が増してきていると考えていたので、当時の展示の続編、アップデートした「表現の不自由展・その後」をやりたかった、そうであるならば、2015年の時点であの企画を実現させた彼らに力を貸してもらうことに大きな意味があると思ったということです。
  

再開後の不自由展入り口。厳戒態勢が敷かれた。 ©辻田真佐憲

――不自由展実行委に対しては、自分たちの政治的な主張を作品に持ち込んでいるのではないか、という批判も出ましたが、その点はどう思われますか?

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津田 辻田さんはまさにプロパガンダの専門家なので釈迦に説法ですけど、プロパガンダを辞書――大辞林で引くと「特定の考えを押しつけるための宣伝。特に、政治的意図をもつ宣伝」と書いてある。さて、不自由展の展示は来場者に何かを押しつけていたんでしょうか? 不自由展は、来場者が見るかどうか選べるようにしようという意図で、順路から外れた端の部屋で展示しています。さらに外からはレースのカーテンで中が見えないようにして、入口には注意喚起のメッセージを付けてゾーニングもしていました。キャプションには、出来事の経緯と作品解説のみが書かれています。そのような配慮をしていた展示を一方的に「プロパガンダ」と言われるのは納得しかねます。プロパガンダという言葉を幅広く解釈しすぎだと思いますね。

――津田さんには不自由展への深い思い入れがあったこと、例えば「不自由展実行委員会が提訴された場合には、芸術監督がその訴訟費用を負担する覚書を交わ」(中間報告)したことなどから、この企画に対しては非常に前のめりである印象を受けました。

聞き手・辻田真佐憲さん(左)

津田 そうですね。あれは契約の最終段階で、不自由展実行委の方々が「もし展示中止になった場合に、不自由展の参加作家たちから訴えられる金銭的なリスクを取れない」とおっしゃったので、そうなったら自分が負担しますという話をして実現にこぎつけたというシンプルな話です。中間報告ではそこが批判されていますが、監督が自分で協賛したり、参加作家の作品を購入したりするようなもので、なぜそこまで批判されるのかは正直分からないですね。

――津田さんにとって不自由展は、やはりトリエンナーレ全体を俯瞰して見てもかなり重要なものだったということですか?

津田 繰り返しになりますが、不自由展は全部で106ある企画のなかの1企画でしかありません。しかし、「情の時代」というテーマを考えるうえで表現の自由や検閲という問題は不可欠であるとも思っていました。

 僕は、この2年間、ジャーナリストが芸術監督になることの意味をすごく考えてきました。その延長で、社会や枠組みに対して意味のある問題の投げかけをするべきであると思うに至ったんです。その1つがジェンダー平等(※5)でした。もう1つが検閲や表現の自由の問題です。ネット時代の今だからこそ問い直されるべきだと考えましたし、不自由展の展示中止や文化庁からの助成金不交付にいたる今回の騒動が起こったことでこの問題と向き合わざるを得なくなった人も多いと思います。僕が批判されている要因には、現代美術業界はグレーな領域で政治から直接的に介入されることをうまく避けていたにもかかわらず、僕が今回暴力的に見えるやり方で、権力の芸術や表現に介入したい欲望をあらわにして、不交付という具体的な決定を招いてしまったことにもあるのでしょう。

※5 3月27日、あいちトリエンナーレの参加アーティストの男女比率を半々にすると発表。

 

 でも、本当にあいちトリエンナーレが「パンドラの箱」を開けたんでしょうか? 感情をあおられたネット世論と、それに媚びる政治家たちによって一度決まった文化事業の決定が覆ることをわれわれはすでに2回経験しています。1つは国際コンペで決まった新国立競技場のザハ案。それから佐野研二郎さんがデザインしたオリンピックのエンブレム。どちらも正当な手続きで決定し、多くの専門家たちが問題ないという知見を発表し、実際のプランに瑕疵がなかったにもかかわらず、感情によって彼らの作品をバッシングして引きずり降ろし、そのこと自体が政治家の人気取りに使われた――はたしてどちらの方が「プロパガンダ」なんでしょうね。