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「情によって情を飼いならす」試みは成功したのか

――「情の時代」というテーマには「情によって情を飼いならす」という目標が掲げられていました。そういう試みは、どれくらい成功したと思いますか?

津田 情報によって煽られた感情が引き起こす問題を「情け」で乗り越えると言いながら、分断を深めただけじゃないかという批判があることは承知しています。それが十分にできたとは思いませんが、終わってみれば、部分的ではあるけれど乗り越えられたところもあるとは思っています。そういう事例の1つが9月に立ち上がったプロジェクト「ReFreedom_Aichi(※6)です。大村知事と不自由展実行委の「正しさ」がぶつかっている中で、「第3の道」をアーティストたちが作ろうとした。

 彼らは記者会見を行うことで問題提起をしました。そのことを批評家の東浩紀さんなどは「アーティストがやるべきことは作品をつくることであって記者会見などの政治をすることではない」と批判的でしたが、記者会見は彼らが実際にあのプロジェクトでやっていたことのほんの一部でしかありません。彼らがやっていたほとんどの作業は、面倒な裏側の調整です。再開に向けた道筋をつくるためにアーティストならではの発想力でアイデアを出し、知事や検証委員会や愛知県職員、不自由展実行委、ボイコットした海外アーティスト、ときには反対派住民も巻き込んで解きほぐしていきました。僕がカバーしきれなかったアーティストサイドの調整を、彼らがずっと裏側でやってくれていた。まあ「調整」というのは「政治」そのものなので、それが気に食わない人もいるんでしょうが、そもそもビスマルクが言ったように、「政治は可能性の芸術」ですからね。

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「なぜボイコットしないんだ。だから日本人アーティストはぬるいんだ」という美術業界からの批判や、自分たちが海外からどう見えるのかというレピュテーションリスクを引き受けた上で、トリエンナーレ復活の道を探り、実現するために労を惜しまなかった。彼らの働きがあったからこそ最後には、不自由展が全面再開して、全作家が戻った。そしてそれは、一部かもしれないけれど、情の問題を情けで乗り越えられた貴重な事例だったのだと思います。

※6 「あいちトリエンナーレ2019」に参加している国内外のアーティスト35組が主体となり、閉鎖されている全ての展示の再開を目指したプロジェクト。9月10日に行われた記者会見には、卯城竜太(Chim↑Pom)、高山明、小泉明郎、ホンマエリ(キュンチョメ)、大橋藍、加藤翼、藤井光、村山悟郎が出席。

 

――不自由展再開の前日、10月7日の記者会見で「不自由展の中止を受けて展示の中断や変更を行っていた作家たちが、明日から全員戻ってきてくれることが何よりも喜ばしい。本来の形のトリエンナーレが見せられることを喜ばしく思っている」と津田さんは語っています。

津田 全作家が戻ったことがとても重要です。普通、これだけのことが起きた後にはもう戻ってこないですよ。でも不自由展だけではなくて、すべての作家が戻ってきてくれた。もっと長い期間やりたかったですけど、その形まで持っていけたことは奇跡だと思っています。

 敵味方の分断ではない、違うやり方といえば、「愛国倶楽部」という河村市長の発言を支持し、一緒に座り込みした名古屋の保守団体がいて、その会長のところに「ReFreedom_Aichi」のアーティストたちはわりと早い段階で会いに行きました。10月6日か8日に再開するという方針が決まったあと、僕も愛国倶楽部の会長に電話をして会いに行って話しています。話した内容としてはほとんど合意できるところはなく、平行線が続きましたが、しかし「対話」はできたし、彼らが何に憤っているのかの一端は理解できました。ヘイトスピーチの問題を相対化するつもりはありませんが、少なくとも匿名ではない愛知県人としての彼らとコミュニケーションを取れたことには、暴力的な抗議を減らすという点でも、「情を情けで乗り越える」ヒントを探るという点でも、意味があったと思っています。

 

――裏側ではどういうことが起こっていたのか、内部にいた人が記録を残さない限り、忘れられてしまうと思います。津田さんが手記を書かれるという話もありましたが。

津田 そうですね。きちんと自分なりに、この騒動と中で起きていたことについては、まとめたいなとは思っていますが、ぶっちゃけ書けないことのほうが多いですね(苦笑)。

――今後、トリエンナーレが再検証され、様々な本やインタビューが出る中で、「結局どうだったのか」「どういう意味があったのか」が定まっていくはずです。

津田 今後は、文化庁の助成金不交付の問題がどうなるかですね。トリエンナーレは何とか無事終了しましたが、第2ラウンドは文化庁の不交付問題であると自分は認識しています。ここ数年間、「政策芸術」という言葉も出てきましたが、国が露骨に文化芸術に介入する口実を探していたと思うんです。ずっとその欲望は存在していて、今回はこんなにも分かりやすい形で可視化されてしまった。撤回まで行けるか、まあ普通に撤回ということにはならないと思うので、愛知県が国(文化庁)に対して行なっている不服申出、その後に控えているであろう訴訟。この展開がどうなるか。これが1つのポイントかなと思っています。もちろん不交付撤回に向けてジャーナリストとしての自分ができることは何でもやろうと思っています。

写真=平松市聖/文藝春秋