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連載昭和の35大事件

日本の運命を変えた太平洋戦争の裏側――東条英機内閣の書記官長が明かした「開戦前夜」

ハル・ノートの10日後にアメリカから届いた“親電”とは

2019/11/10

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア, 政治, 国際

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最後まで米国の心持を変えることに努めた

 これ程苦心をしてきめた時間であったが、いよいよとなるとワシントンに於ける我国大使館の事務の手違いか、怠慢か、翻訳、文書の作成が手間どり、結局野村吉三郎大使の文書の手交は所定の時問より1時間遅れ、ために真珠湾の衝突より遅くなり、折角の苦心も水の泡となり、云わば外交上の恥をかいたことは残念なことであった。

真珠湾攻撃 ©文藝春秋

 米国側にこの文書が手交されたら、内閣は直ちに、宣戦の詔書の公布その他戦争状態に入ることに関連して必要な事項の処理を開始しなければならない。が、それまでは軽々しく動くことはできない。その間に異常な動きを見せることは、極めて危険なことであるのは云うまでもない。

 一体ハル・ノートとは従来の米国の態度と著しく変り、ブッキラ棒のものである。或は別に米国から意志表示があるのではないかと思われる程のものであった。又ワシントンに於ける我国の代表者も色々のルートを通して米国首脳部に働きかけ、最後まで米国の心持を変えることに努めたことも聞いていた。万一事態が急変して、米国が我国の先の提案を認めるが如き場合には、軍の行動は、何時たりとも直に止め得る様な措置は講じてあると、軍事当局は言明していた。

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 従ってハル・ノートを受取ってからの日々は極度に緊張した、いつどう云う変化があるかわからない不安定の日でもあった。しかし日のたつにつれ、米国の態度に変更はなく、従って事態は終に最後の段階に突入する外なきことは明らかとなった。かくて12月7日に至っては最早事態は最後のぎりぎりの段階に立至ったことを覚悟せざるを得ざるに至ったのである。

「これから満洲に出張するので」明日に何が起こるとも知らず

 私はその日の朝は家に近い紀尾井町の鮎川邸のテニスコートに行って、久し振りに家族のものや、秘書官連中を相手にコートをかけめぐって数時間を費した。そこへ対満事務局の竹内次長が訪ねて来た。「これから満洲に出張するので挨拶に来た」とのことであった。私は一寸出立を3、4日延ばした方がよいのではないかと云おうと思った。が竹内君はその顔色を見てか、東条総裁(首相は陸相として対満事務局総裁を兼ねていた)のお許しも得て来ましたと云った。私も別に、強いて延ばさなければならない理由もないと思いかえして、じゃいってらっしゃいと云って別れた。竹内君は勿論明日どんなことが起こるかは知らなかったのである。

©iStock.com

 ひる過ぎ総理官邸に出かけて行った。ひっそりしている。日本間に東条首相を訪ねた。谷正之情報局総裁、森山法制局長官も別に打合せた訳ではないがやってきた。首相は自室に和服で寛いでいた。訪ねて来る人もない。首相を囲んで色々話をし晩飯をゆっくり食べた。